? GNHの応用 - GNHを中心とした町つくり その1 -


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GNHを中心とした町つくり その1

「何故、町の機能が失われつつあるのか」

 近年、町おこしや町つくりが日本のあちらこちらで言われるようになってきた。単なるインフラ整備や都市計画に対する住民参加のみならず、従来その土地が持ち合わせていた町の特色や、伝統文化を継承することによって町としての繋がりを取り戻そうとする行為が見直されるようになった。
 その背景には、本来、町が持つ機能が失われつつ事が起因している。社会的なインフラ整備、社会保障制度の整備が町の機能の主要な課題となり、自治会のような本来の「人と人との繋がり」を保つ機能や町の一員として町の活動に参加する事も廃れつつある。
 それはなにも新しくその町に移り住む新住民だけの問題ではなく、元々の住民に対しても大きな問題である。元々の住民も自分の住む町が画一化して行く事に危機感を募らせ、自分の町の個性が無くなりつつあることに恐怖感すら覚えているであろう。
 しかも多くの都市化をした町では、地元育ちの人口の割合は年々少なくなり、地縁による繋がりも徐々に薄れつつある。以前は 3 世代同居も珍しくなかった為、地元出身者が再生産されることが多かったが、核家族化の進行により親の世代と別に住むことが一般的となり、なかなか地元に住まない、もしくは住めない状況となっている。

 筆者はまさに「偏差値世代」の真っ只中で受験戦争を戦ってきた年齢である。自分の進む大学をその大学の歴史や教授陣で選ぶことなく、その立地や自分の今までの模擬試験による偏差値で「入れそうな大学」の中から志望校を選んだ記憶がある。
 自分が住むマンションを購入する際も「バブル経済」の絶頂期で、とにかく「ローンを組むことが出来る限界の金額で購入可能(つまり社会人としての経済偏差値)」という物差しが最優先されて、「住む」事を中心とした視点が最優先されていないのではなかったように感じる。これは賃貸住宅を選ぶときも同様の意識が働くのではないか。
 その結果、住む行為自体より所有することに満足し、そしてそれを維持する行為に意識が集中し、ただでさえ忙しい仕事に忙殺され住環境を考えるゆとりさえなくなるのであろう。そして住む場所はただ単に寝る場所という意識になっていくのである。
 確かに寝るだけ、通勤の快適さを個人が求めているのなら、単なる機能的な快適さを追求することが自分の住む町を選ぶポイントとなるであろう。しかし果たして人間が社会生活をおくる上で求めていることはそれだけなのであろうか。今のように個人の快適さを目的とする社会のあり方はなにか大きな間違いを引き起こしているようにしか思えない。

 筆者は思う、多くの人は現在自分の住む町に対して愛着を持っているのであろうか。愛着を持つ暇すらなく、生活に追われ、十分に住む場所を楽しめない人が大半ではないかと考えている。また何がしらのきっかけも無く、居住地での仲間つくりが出来にくい状況に居り、孤独を感じ、その町に愛着が湧かないのかもしれない。
 人間は関係性、社会的な動物だと筆者は考えている。よって何れこのような個人の意識の変化は必ず社会に還元され、殺伐とした雰囲気をかもし出すであろう。これが都市化の最大の問題である。人は社会に帰属するものである。
 だからこそ社会に対する責務や義務を負う。そのことが伝統的には当然であったし、それがいわゆる大人になることでもあった。しかし現代社会ではその大人としての行動を取る気力まで仕事に吸い取られているのであろうか。

 しかし、個人はやはり他者や集団との関係性を求めていると仮定できる。その関係性を構築するためのモチベーションを如何に引き出すかが町の再生には欠かせない要因だと考える。
 要は個人の社会参加により社会全体が変わってくるように思える。この忙しく中々取っ掛かりの見えない現代社会でいかにその個人の「社会参加」を促すかを次号で検証してみる。

 

文責 平山修一

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