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無駄は無駄なのか

2014年10月29日

無駄は無駄なのか

 先日、ヒグマが産卵を控えて川を昇ってくるサケを捕まえて食べている映像を見た。大きな体をしたヒグマはまずサケの腹を噛み、イクラを2口ほど飲み込むとすぐに別のサケを捕ろうと川に入っていった。
 その動作は何度も何度も繰り返され、川のほとりは無残な姿のサケが何匹もそのままになっていた。しかしその晩、そのサケの死骸を小動物が食べ、翌日には鳥が食べ、そして虫が食べ、微生物に分解され、最後には跡形もなくなったと。
 自然の摂理、まさに自然界に生きる生き物の末路は同じ、他者の血肉となるか、土に帰る。自然には無駄な要素が少ない。すべての事が有意義であり、すべての生き物には意味があり有意義だと考えても良いであろう。

 このように大局的な見方では無駄ではないのだが、では実際の個の熊の行動には無駄が無かっただろうか。結論から言えば無駄だらけと言っても良いであろう。一匹のサケをすべて食すことなく次々と新しいサケを少しだけ食べる。これは労力の観点からは無駄であろう。
 しかしこの熊の無駄な行動によって多くの命が支えられている。つまり個の行動が他者から見て無駄があったとしても、その無駄に意味や意義がある可能性があるとも言えよう。よってこのケースでは個のとる行動に第三者が無駄かどうかの判断基準は持ち込めない。
 人間が作り出した社会も同様のシステムが働くと考えて見よう。そうすると人の行動の全てには無駄はなく、意味があるとも言えるのではないか。無駄だと思っているもの価値を見つける視点を持った方が自然ではないか。

 近年の日本では無駄なものを排除する取り組みを社会のあらゆる分野で進めてきた。会社の効率化のみならず、地域を守る市町村などの役所、地域インフラ、そして究極には人の考え方である。
 例を挙げると、学校や会社への通勤は最短距離、最短時間でと考える人も居るが、地域社会で共同生活を送っている人間はそうもいかない。他人との調和を取る事によって最短時間で通勤できない事もしばしば起きる。
 自分にとって無駄は他人にとって無駄なのか。あなたの【無駄】によって救われている事はないのか。秋の夜長、思索にふけるもの一考ではないか。

文責 平山修一

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