2014年07月15日
実は、誰もブータンを羨ましいとは思っていない。
何の裏付けもなく仮説として強い掲題としました。GNH研究所が、ゆるやかな集まりであって欲しいので躊躇はしましたが、同時に強い気持ちがなくては新たな価値に踏み出すのも難しいです。新参者からの挑戦としてお読みください。
●GNHは、いつまでブータンの持ち物なのか。
GNHの概念をはじめて知ったとき、自分はそこにすがったのだと思う。日本社会から寛容さが失われ、居心地の悪さを日々感じていれば当然のこと。個人的には幸福に生きてこられた。だから、すがりたかったのは、未来への選択にGNHを指標とするような動きを期待してである。日本国内でのGNHの認知度を調べたが探しきれなかった。周囲を見渡しても、それほど多くの人がGNHを知っているようには思えない。認知されている方は、おそらくブータンがヒモ付いて記憶されているだろう。そんな方との会話では、「ブータンは素晴らしい。」「GNHは日本にも大切だよね。」と、一応話は盛り上がる。ただ、違和感が残る。SNSで、いいね!をするような軽さ。感じるのは、実は日本人はしあわせだと言うこと。ブータンを羨ましい、学びたいとクチにはするが、明らかに優越意識を捨てられない。考えていただきたい。妬み、嫉みといった感情は人の心にそもそも与えられたもの、日常的に顔を覗かせる。身近な他者の幸福、例えば、評価される人物、豊かな暮らしぶりなどに敏感に反応する。自身の実利的到達点と重なる他者の幸福には強い感情がでる。では、ブータンを羨ましく思うのか。余裕を持ちながら見つめている自分がいる。経済的には、まだまだ豊かな国に住んでいる。その優越意識は、かなりの根っこまでを支配している。GNHがブータンとセットで語られている内は、この国で本気の議論はできない。ブータンの話ではない、日本のGNHを話したいのだ。
●ごめんなさい。謝ります。
挑戦文は上記がすべてです。ブータンを愛されている方、研究されている方には失礼な締め方をしたのをお許しください。140524定例会で話しきれなかったことの続きとしてまとめました。GNH研究所は、ブータンというコトバを使用せず国名を重ねてイメージさせます。当初は、"ブータン"研究所として参加された方が多かったとも伺いました。GNHはすでに世界的なモノサシ。提唱国ブータンは、GNHに縛られ、かえって不自由になるのではとも危惧します。しあわせは人それぞれ。GNHも国それぞれでは、いけないのでしょうか。ブータン人も日本人も、一人ひとりがいまよりしあわせを感じられる社会に。心の持ちようと思いますが、それが難しいのでしょう。
文責 高畠 淳 GNH研究所 会員
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