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子どもの守り方

2014年07月15日

子どもの守り方

 ブータンと日本を行ったり来たりする生活を続けて早16年。近頃、気になることがある。それは、日本社会の「子どもの守り方」である。 駅で新幹線を待つ間、地下街を見物していた時のこと、キャラクターものが並ぶお店で、ジッパーが開いたままのリュックを背負った女の子を見かけた。中の荷物が落ちそうである。私は「お嬢ちゃん、かばんが開いてるよ。」と言いつつ、ジッパーを閉めてあげた。と、どこから現れたか「うちの子に、何するんですか?!」と若い母親。いや、お嬢さんのかばんが開いていたので・・・という返事なんて聞きもせず、母親は私を睨みつけると女の子を引きずって行ってしまった。「ちょっと~?!」と叫びたい私を残して。

 日本では子どもを巻き込んだ事件が後を絶たない。他人による犯罪だけでなく、実の親が子どもを置き去りにして餓死させることもあるという悲しい時代だ。保護者や学校が子どもたちを守るために神経質になるのは理解できる。しかし子どもの安全を考えるあまり、子ども達を囲い込み地域社会と切り離すことで逆にリスクを高めている気もする。日常は地域の大人たちの善意を拒絶しているくせに、いざことが起こると「声を出して周囲の大人に助けを求めましょう!」なんて、そんな理屈がうまく機能するわけがない。何しろ相手は善意も悪意もいっしょくたに切り捨てている集団なのだから関わるとロクなことはないと、母親に睨みつけられた善意のオバちゃんなどが考えたとしても仕方ない。結果、子どもが転んでも、さまよっていても、しばらく姿が見えなくても(実際はアパートの一室で虐待されていても)、反応しない無関心な社会が出来上がるわけだ。

 子どもの虐待はブータンにも存在する。私は義姉の家に仮住まいのころ、向かいの集合住宅の階段を親に蹴られて転がり落ちた子どもを目撃したことがある。庭先で織りをしていた義姉は筬を放り出して駆けつけた。近所の人も住いから飛び出してきて一騒動に。その子は当然のように義姉の家で食事をし甥や姪たちと一緒に眠った。

 この体験はその後、私の「おせっかい魂」の基盤になった。保護者や教師でなくとも我々大人には、善意と悪意を区別する能力のない子供たちに積極的に関わる義務がある。加えて保護者や学校という限定コミュニティの人々は、地域社会の大人を巻き込んだ安全対策を模索すべきだ。例えば子どもがいない家庭も学校の催しに招待するなど、子どもと地域の大人が知り合う機会を増やすべきだ。

 「おせっかい」は社会を変える。まずは近所で通学の子供たちに「おはよう!」と声をかけることから始めよう。


文責 青木 薫

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