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情報と幸福の甘くて苦い関係

2013年10月15日

情報と幸福の甘くて苦い関係

 「ブータンの情報化」をテーマに研究をしている、という話をすると、まず「どうしてそんな研究を?」という怪訝な顔をされることが多い。「幸福の国」として語られることの多いブータンと、「情報」という現代社会を象徴するような言葉とが、上手く結びつかないのだろう。
 たしかに、ブータンは近代化、特に先端技術を導入することに対して、最大限の注意を払ってきた。自然環境への負荷、伝統文化への浸食を最小限に抑えることが出来なければ、経済的メリットを得られたとしても、結局は国民の幸福には繋がらない、との考えからであった。当然、情報化を進める上でも、慎重な政策が採られてきた。かつて第4代国王は、「欲望は人間が受け取る情報量と比例して増大する」と語ったと言われており、情報化による影響力、例えば、欲望を刺激され、過度の消費主義に走ってしまうことなどに、強い警戒感を抱いていたことが伺える。

 それでもなお、ブータンが国家政策として情報化を推し進めなければならなかった背景事情には、時を同じくして進行していた民主化への歩みが大きく影響していると考えるのが妥当である。情報が広く国民に開かれていることは、国民が、自らの良識に基づいた正しい判断を下す民主国家にとっての必須条件であったためだ。

 このような経緯を経てブータン国民に与えられた「情報」は、果たして彼らを「幸福」に導いているのだろうか。学問的には、その問いに答えることは極めて難しい。「情報」と「幸福」のあいだには、多くの間接的要因が折り重なっており、その直接の因果関係を特定することはほぼ不可能であるからだ。

 新しい「情報」、例えば、隣国での生活の様子などに触れることによって初めて、自分たちの生活が相対化され、あちらに比べてこちらは貧しい、といった状況を認知することになる。そのとき、人々の心に生まれるのは、憧憬や羨望だろうか。そうしたプラスの感情が、ある種の原動力となって能動的に変わろうとするならば、ブータンの情報化はきっと国民を幸福へと導いていくだろう。しかし、嫉妬や諦観に支配され、ネガティブな思考に囚われてしまえば、その未来は決して明るくない。「情報」そのものが善であったり悪であったりすることはなく、全てはそれを受け取る人間の心一つ、ということになる。

 さて、最後に一つ。1960年代からはじまる、高度経済成長時代の日本。その中に、工業化の次を見据え、技術革新によってもたらされる近未来社会としての情報化社会を夢想した先達がいた。その中の一人、増田米二は、情報社会では、コンピュータが人間の知的労働を代替・増幅する、という技術革新が、社会・経済構造だけではなく、人々の価値観をも大きく変革することを予測した。その一方で、彼の著書の中には、情報社会の国民目標は「国民総充足 (Gross National Satisfaction) 」である、という文言が出てくる。当時の日本で、ブータンの「GNH」を紹介した文献等は皆無であり、増田が、「GNH」という言葉を知っていた可能性は限りなく低い。それでもなお、彼の提唱した「GNS」は、「GNH」と驚くべき近似を示している。この偉大な先達は、「情報」に満ち足りた未来(≒「幸福」な未来)を託したのだ。

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文責 藤原 整

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