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中と外

 「最近の若者は緊張感が無い。大学近くの歩道でも良くすれ違いざまにぶつかる学生があまりにも多い。これは動物として一種の退化ではないか。」久しぶりに会った学生時代の指導教官がつぶやいた。
 確かに最近の学生のみならず多くの人は歩行の際に前を向いていない。目と目を合わせるのはよくない事だという習慣もあるが、それにしても周りに注意をしないで歩いている人のなんと多い事か。
 人間は5感を駆使する動物である。前を見ない事を容認するとしても、せめて耳をフルに使って危険を察知するなどの工夫が必要だと思うのだが、耳にはヘッドフォン。これでは注意して歩きようが無いであろう。

 「前を歩く人が邪魔なんですよ」彼には前を歩いている他人がただの障害物に見えるらしい。確かに急いでいる人にとってゆっくり歩いている人が邪魔だろう。でもちょっと考えてみると分かる事で、実社会はゲームではない。ましてや他人は障害物ではない。
 「男は一歩外に出れば、七人の敵がいる」といわれて久しいが、家の外は本来、それなりに緊張するべき場所である。それなのに町で見かける人の何と無防備な事か。家の中と同様に大声で話、化粧をし、床(道路)に座る。
 つまり外と中の区別が出来ない人が増えていると言えるのではないか。家の中にいる時と同様な振る舞い、相手がよけて当然との慇懃無礼な態度。海外ではこのように周りに注意を払っていない人は犯罪者にとって格好の餌食である。
 急に飛び出してくる人、バイク、物陰に潜む人。何かあっても警察官は当てにならず、自分の身は自分で守る。途上国のみならず海外の基本は自己責任である。音楽を聴きながら前も見ていない人が犯罪にあっても「それは貴方が悪い」と言われるのが常である。

 最近の携帯は多機能である。メール、インターネット、駅から目的地までのルートのナビゲートなどなんでも出来る。よって最近では電車から降りるや否や聖徳太子の笏(しゃく)の如く携帯電話を凝視して歩く人も多い。その様子は全く雅やかではなく、あくまでもエゴイスティックである。
 人は社会性の動物である。一人で生きているわけではない。社会で生きるという事は周りに合わせてルールを守り、周りの変化や動きを察知し行動するという事である。社会に出て居ながら利己的に振舞えば必ずそこには齟齬が発生する。
 音楽を聴きたい気分も分かる。しかし最良の音楽は私達の生活の中の音であり、自然の音と考えては如何だろうか。5感を駆使して日常を送る事が、自分は社会の一員だと再認識する良い機会なのではと思う。

 

文責 平山修一

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