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まいりました

 最近素直ではない自分を感じる事がある。競争社会は謝った方が負けである。また知らない事を知らないと素直に言う事もマイナスポイントになる。だから分からない事を聞かれてもうやむやに返事をして、決して知りませんとは言わない。
 「自分がぶつけても決して謝っては駄目。謝った方が悪くなるから。。」20年くらい前だろうか、車に乗り始めた筆者に友人は言った。悪い事をして謝ってはいけないとは何事だと違和感を覚えた事を今でも鮮明に思い出す。
 このような姿勢が今は生活のあらゆる事に蔓延してはいないであろうか。そして負けたり、謝ったりする事が全てにおいてマイナスであるという思想が蔓延し、私達の社会は私達をより利己的にさせるのであろう。

 勝者の礼儀、これは武道の心得であると考えている。武道はただの勝ち負けを競うものではなく、試合を通じて学びの機会を得るものである。よって試合の場や試合相手に対して感謝の意を表するものである。
 よって相撲などの勝負に勝ってガッツポーズをするなどあってはならない。ガッツポーズをしたくなる気持ちも理解できるが、それは試合のセレモニーが終わってから出ないと相手に失礼だし、その競技自体に対する尊敬の念がないとみなせる。
 また勝つ事によって学ぶことも多いが、負ける事によって学び得るものも少なくない。自分の高慢さ、自意識過剰などに心が支配されていては、中々学びを得る事はできないであろう。
 だからこそ負けた方が「まいりました」と素直に負けを表明し、心を学びのモードにするのではないか。一旦素直になったからこそ心に隙間が出来、多くの事を習得できるのではないか。
 「まいりました」、「負けました」は魔法の言葉である。一旦固まりかけた心をニュートラルにし、素直になる事で心は楽になり、新しい事を吸収できるのである。私達の競争社会や自己責任社会はこのような貴重な学びの機会を奪っているとも言えよう。

 世の中、どうにもできないことがある。例えば異常気象によって電車が遅れて約束の時間に遅刻する事だってあるだろう。また自然や社会の状況によって個人の力ではどうしようもない事もおきるであろう。
 そんな時はジタバタしても無駄である。時間の過ぎ行くのをひたすら待つか、祈るしかない。一旦ギブアップしてみては如何だろうか。そして心の中で「まいりました」と叫んでみては如何だろうか。
 その積み重ねが、他者を尊重する社会を作る第一歩になるのではと考えるこの頃である。

 

文責 平山修一

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