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いつかなりたい自分像

 平日の昼間にも関わらず多くの利用者がひしめく山手線のホーム。春休みに入った若者たちの姿も目立つ。構内に電車が入ってきた。黄色いラインを前にした最前列にて緊張が走る。意識過剰と言えばそこまでであるが、事件直後には多くの人が毎日利用している駅にも関わらず同様の思いで臨んだのではないだろうか。いったい、そんな社会に誰がしてしまったのか?
 若者による奇特な事件が相次いで起こった。「早く捕まえてごらん」「刑務所に行きたかった」「私が神だ」といった被告人のコメントが、報道の中で紹介された。共通しているのは、いずれも映画やアニメの中で使われていそうな言葉。とても現実の生活を背景に発せられたものとは思えない。心に何か大きな問題を抱えていたにしても、その他にもいろいろな決着の手段があっただろうに、と考えずにはいられない。

 平日の昼間にも関わらず多くの利用者がひしめく山手線のホーム。春休みに入った若者たちの姿も目立つ。構内に電車が入ってきた。黄色いラインを前にした最前列にて緊張が走る。意識過剰と言えばそこまでであるが、事件直後には多くの人が毎日利用している駅にも関わらず同様の思いで臨んだのではないだろうか。いったい、そんな社会に誰がしてしまったのか?
 若者による奇特な事件が相次いで起こった。「早く捕まえてごらん」「刑務所に行きたかった」「私が神だ」といった被告人のコメントが、報道の中で紹介された。共通しているのは、いずれも映画やアニメの中で使われていそうな言葉。とても現実の生活を背景に発せられたものとは思えない。心に何か大きな問題を抱えていたにしても、その他にもいろいろな決着の手段があっただろうに、と考えずにはいられない。

 さらに専門用語の羅列で申し訳ないが、個人の言動を決定する無意識の中には「元型」という集合的意識が存在しているという。同じ地域や文化を共有する者同士が環境の中で培っている「いつか人間としてなりたい目標」と表現すればよいだろうか。(キリスト教徒なら聖書の中のエイス・キリスト。仏教徒なら仏画の中のお釈迦様がそれに該当する。)ブータンでは官職も農民も皆、退職後には真剣に宗教に帰依していくという姿を見てきた。また、それが当り前であるという社会環境があった。日本はどうだろう。宗教や天皇制について語ると事が大きくなりすぎるので、身近なところで例をあげるとすれば、一昔前の公立小学校の校庭には必ずと言っていいほど二宮金次郎(尊徳)像があった。勤勉と勤労の象徴であり、言わば日本人に共通の「いつかなりたい自分像」であったのではないだろうか。最近の小学校に二宮金次郎の像があるのかどうかは調査に至っていないので想像の域でしかないが、おそらく減っているのではないかと思う。戦後の好景気に歴史のスタートを見る今日の日本社会においては、目標とする歴史上の人物を挙げるのは難しいだろう。変わりに身近に溢れているのは、家族よりも顔を合わせる機会が多くなった、テレビの画面上に映し出されている成功者(成金?)や架空のヒーローたちではないだろうか。苦労の末に成功を治めるといった苦労人のヒーローよりも、最近は財テクや株などの影響もあるのだろうか、苦労をせずに成功をおさめる「天才」というヒーロー像がもてはやされているようだ。更には、ドラマやアニメの世界にはダークヒーローといった正義なのか悪なのかもわからないヒーローも存在し人気を博している。先日の事件を起こした青年たちの一連の行動は、こういった「架空」の理想像を追い求める世代が起こした「現実」の事件であったのではないだろうか。
 最近毎日ニュースを見るたびに異常な事件が日常化しているのに驚く。こういう「悪夢」を身勝手に実現するような追い詰められた人々が増える「物の豊かな」世の中よりも、若者たちが肩を寄せ合い、最近では語る事も難しくなっている、でっかい将来の「夢」について胸を張って語りあえるような、そんな世の中になってもらいたと切実に思う次第である。

 

文責 高田忠典

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