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World views make a difference./ GNH3国際会議へ出席

会場 ブータンそしてカナダに続く第3回目となる国際GNH会議が11月の22日から28日に渡って開催された。タイ・バンコクのチュラロンコン(Chulalongkorn)大学では真夏を思わす太陽の下、世界15カ国から約300人が出席し各国におけるGNH研究最前線の情報が飛び交わされた。

華やかなセレモニーから基調講演、ディスカッション、Work shopを経て、最終日に行われたブータン総合研究所(Center for Bhutan Studies/ 以下CBS) 主催のPost Conference Program。ブータンにおけるGNHへの取り組みの近況が紹介され、出席者を含め今回の大会および将来のGNH活動について自由な意見が交わされた。体会全体をねぎらう賞賛の中には時折反省のこもったコメントも少なくはない。著者も全日程に参加したわけではないが会場の雰囲気を通じいくつかの批評が頭に浮かんだ。まず各国におけるGNHに関する受けとり方の差異。今回の大会に多く出席した周辺の途上国からの出席者にとっては初めて直面していく近代化の中で、言うなれば方正な「貧困の解決」を押しすすめる手段としてGNHの研究がなされているのに対し、欧米を中心とした先進国の出席者達の興味は近代社会のピークがすぎ、これまでの経済主義一辺倒であった社会制度を「自省」する動きとして、伝統社会への回帰を求めているような雰囲気が強く感じられ、当然その両者の間には温度差のようなものが感じられた。次に前回の大会同様、注目されてきたGNHの指標化について。研究の中心的機関となるCBSであるが、来年の政党制へむけたブータンの移行期ともあってか目を見張るような報告が発表されることはなかった。その他の国の研究機関の発表も同様である。またしてもGNH指標化へ向けた課題は次回への繰り越しとなった。
今回大会全体をとおしてもっとも出席者を喜ばせたのはオープニングでブータンとホスト国タイの両総理大臣が顔を並べるという場面ではなかったか。国家レベルでのGNH政策導入へ向けた糸口を垣間見させてくれた歴史的瞬間だったといえるのではないだろうか。

環境・教育・文化といった日本の社会にとっても大きなテーマを中心として幸福論が展開された今回の大会。一方、日本は世界の中で国民の幸福という問題の着手に乗り遅れてはいないだろうか。毎年3万人という自殺者の数はいくら国民生活の物質的豊かさを強調しても、日本の社会が国民の幸福を生み出すシステムをすでに持っているとは言いきれるものではないであろう。それでは、近い将来このGNHが日本に受け入れられる日があるのだろうかと考えた。今回の大会を見るかぎり日本の現状をふまえ、それが容易ではない事を肌で感じた。ひとつは今回のブータンとタイを中心とした大会成功の裏側には「仏教」という共通言語があった。西洋からの参加者の多くからも宗教観とGNHをからめた発言がみられた。基調講演の中でブータン・クインセル新聞社編集長ダショー・キンレイ・ドルジ氏が「GNHは哲学」であることを強調した。宗教をふくめた哲学を背景にGNHは誕生し今も成長している。宗教という言葉を聞くだけで嫌悪感を覚える風潮が出来上がってしまった日本に、これを理解する土壌が熟成するまでには少し時間が必要だろう。
そして、常に目の前の経済利益を最優先とする世論の中で、将来のため・・・というGNHの価値観にどれだけの国民が耳を傾けるのか。GNHのテーマにも符合する環境問題に関し日本の世界的イニシアティブも無難路線を貫く政府の姿勢の前に、気がつけばヨーロッパ諸国に先をこされてしまった。さらには先日バリで行われたポスト京都議定書後の温室効果ガス削減策を話し合う、気候変動枠組み条約第13回締約国会議においては最も計画の進展に消極的だとして日本は「化石賞」という不名誉なタイトルまで頂いた。

ここまで自国を責めたくなるのも、開催中「日本には世界に発信できるだけのGNH的題材と文化があるのに」と自己をふくめ、日本のGNHに対する潜在力がありながらもそれを表現できないでいるという今の不幸を嘆いていたからである。第4回目となるGNH国際会議について次回開催国は発表されなかったものの、数年後にふたたび計画が実施されるだろう。今回の大会には日本から数名の研究者と学生が参加した。次回の大会ではぜひ日本からも多くの参加者と発表が国際大会を盛り上げていくことを切に期待している。

 

文責 高田忠典

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