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ひきこもり

 先日日本人会の会報にタイ人学生による日本語スピーチ原稿が掲載されていた。彼女はタイの東大といわれるチュラロンコン大学の学生で、まだ日本語を習い始めて数年と言う。昨今のタイでの日本語学習ブームにも驚くが、学生の語学能力の高さにもその着眼点にも驚くことが多い。
 「始めは日本にはひきこもりという素晴らしい事があると思った」彼女の目にはひきこもりという社会現象が奇異に映るのではなく、肯定的に映ったようである。「好きな時間に起きて好きなことだけをすればいい。また他人と会うこともなく、気を使わなくても良い」確かにそれだけを考えればその生活は楽に見えるし、理想的だと言い切る気持ちも理解できる。
 筆者は内向的な性格だと自称している。実際、人と会うと疲れるし、一人で居る事や、一人で考え事をする時に自分が充電できている気がする。ただし、適度な刺激がないとそれは長続きせず、突然無性に誰かと話したくなるのである。

 タイ人は行動の基本をサヌック(楽しい)であるかどうかを基準にすることが多いと聞く。確かに不快を快にする事は大事であり、身体に無駄な負担もかけないだろう。精神的にも効用は多いと考えることもできる。しかし現実はどうであろうか。
 しかし、彼女は続ける「引きこもりは楽なだけで、狭い部屋にひとりぼっち。運動不足でお腹も出てきたし、恋人ができる可能性はますます減り。。いくら想像してみても、引きこもっている自分は幸せそうな顔をしていない」と。

 人間は社会性の動物である。一人きりの状態を満足することは一時的であって、継続的ではない。ロビンソンクルーソーでは生きていく事は非常に難しい。引きこもりをしている人でも何らかの社会の役に立ちたいと必ず思っているはずである。
 人は集団で生きる事によって、競争と対立、共存と相互依存の関係性を伴う。よきにしろ悪きにしろ、自分の自己形成においても社会との関係は密接なのである。関係性による泣き笑いドラマがあるからこそ、人間として生きることは刺激的なのではないか。
 バーチャルな世界に引きこもるのもよし。でも実世界の方がはるかに予想を超えていろいろな難関が待ち受けている。これは実はゲームより楽しいのではなかろうか。そう考えているのは暇な筆者だけであろうか。

 

文責 平山修一

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