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マインドとハート

 最近考え込む事が多くなった。年齢のせいだろうか、若い頃の考える前に先ず行動というパターンから脱却できた事は喜ばしいが、考えすぎて思案している内にその物事のタイミングを逃す事が多分にして多い。
 「貴方はいろいろ溜め込みやすい性格ですよ」簡単な言葉だが、言い得て妙な表現であり耳が痛い。時代の流れが年々早くなり、たまにこのようにコラムとして自分の思ったことを書き出さないと、次から次へと自分に入ってくる情報に流され押され、頭がパンクしそうな感覚に襲われる。 マインドとハートという呼び方・分類は作家の中野孝次氏がその著書「足るを知るの生き方」の中でされていたものである。マインドが頭で社会的なものを司り、ハートは感情を司る心の事を称している。
 「頭では納得しているんだけど、どうしても納得いかないんだよなあ」論理的にはどう考えても相手に言われた通りである、しかし、気持ちがそれを容認しない。まさにこの時、マインドとハートの間に葛藤が起こっているのではなかろうか。
 自己診断をすると、どうも筆者はマインドに重点を置き行動する習性が身に付いている様である。それはそれで社会生活を営む人間として望ましいと思う。しかし、もっと自由に振舞えたらなあ。。。とハートで思うこともしばしばである。

 一般的に「スケジュール帳が一杯だと充実感がある」、「いやあスケジュールが分刻みだよ」と言って仕事上の充実感を感じる人は多いのではないであろうか。実際筆者も若い頃はスケジュールに空きがある事を恐れ、その空白を埋めるのに必至だった覚えがある。
 つまり、スケジュールの内容はどうでも良くて本当は、空白=自分と向き合うのが嫌なだけではなかろうか。自分に自信が無くて、忙しい自分でないと落ち着かない。。。忙しくないとハートの声が良く聞こえてしまうからではなかろうか。

 よく自分の心の声を、体の声を聞けというが、それはハートの声に素直になれという意味なのかもしれない。ハートが「もう限界です!」といくら言っていてもマインドでは「いや今日は大事な商談があり休めない」と考え、結局無理をしてしまい、いつかは身体や精神を壊してしまう。
 たまにはハートの声に従って時を過ごして見ては如何だろうか。社会的・倫理的束縛から解放され、時を過ごすのはハートにとって格別の時間であろう。そしてその時間こそ、自分の人間としての本質と向き合う時間であり、自分を取り戻す時間、自分らしい時間なのであろう。
 ハートは嘘をつかない。たとえそのハートの声が社会的に容認されないものであったとしてもそれを一旦受け止めてみよう。そこでハートの声を否定すると、いつしかマインドで制御できなくなるほどハートの声が強くなるのであろう。そうなる前に!

 

文責 平山修一

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