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極限の世界に生きる民に学ぶ

 極限を読者の皆さんは経験した事があるだろうか。筆者も極端な極限の地は訪問した事はまだない。それとも筆者が気が付かないうちに訪問しているのかもしれない。砂漠などの不毛の地、一面氷の世界、食料も水もない無人島、、、。
 実際にこのような極限の地を訪問すると「これで日常のジレンマから開放される!」と喜んでいられるのは観光客の特権で、実際その場所は生命維持に必要最低限な物を確保するのにも多大な労力が必要なのである。そう死ぬか生きるかの世界である。

 筆者が仕事で滞在したモンゴルのゴビ砂漠も生活が大変な場所のひとつである。半径100Km以内に誰も他の人間がいない事は珍しくなく、朝夕の寒暖差はゆうに40度を超える。また車窓から見えるその景色はひたすら瓦礫の山と乾いた土地にへばりつくように育つ草のみである。一般的な日本人の感覚では「何を食べるの?飲み水はどこ?」と困ってしまうような場所である。
 「ええっ2時間前に食事したばかりなのにまた食事?」モンゴルの業務で地方都市に出張した時の事である。朝7時に朝食を食べたばかりなのに朝9時ごろに通りかかった町のレストランに皆で入ろうとするのである。
 「次いつ食事ができる場所があるか分からないし、後のことは誰にも分からない。今出来る最善の事をするだけである」極限の状況ではこのような心構えが必要なのかと驚愕した覚えがある。そう、彼らの行動には彼らなりの理由があるのである。
 また極限の状況に生きる人は旅人に優しい。これは旅行者の間では一般的な理解である。自らぎりぎりの生活をしているはずの彼らは、見ず知らずの旅行者を手厚く持て成してくれる。何故自分が辛い状況にいるのにこのように他人に対して優しくできるのであろう。

 見方を変えれば今の東京でのサラリーマンも極限の状態で生活する事を余儀なくされているように思える。休む暇無しに重い責務の仕事を淡々と自分の感情を抑えてこなす。朝夕(深夜)の長時間の通勤、24時間携帯電話によって会社に繋ぎとめられ心の休まることなく、生活を楽しむことなく生きる。これを極限といわずして何といおう。
 両者が置かれている立場は、生命の維持に関して極限な状態である事にはなんら代わりがない。しかし東京のサラリーマンが他者への思いやりを持つ余裕は皆無である。では両者は何が決定的に異なっているのであろうか。
 筆者はその違いは時間の使い方や心のゆとり、自然とのコミットメントの深さなど、自己選択の自由度にあると感じている。多くの場合、極限の民の思考は実にシンプルである。そのシンプルさに多くの先進国の人はその意見に涙し、心惹かれる。

 しかし、何をするのも自分次第、自分で動かなければただ死に行くのみ。このように全ての結果が自分に帰属する厳しい世界である。しかし、他人に何かを無理やらされているようなものは多分に少なく、その点では自由を少し感じられるのである。
 その極限の民の生活様式や習俗、宗教観の最優先事項はあくまでも種族維持である。実にシンプルで生命を持つ動物にとって合理的な考えである。それ以外の事を考える時間が少なく、人間の思考も実にシンプルである。
 本当はどちらの状況にいても選択の自由はあるのである。しかし高度に発達した社会では本来の人間の判断能力が社会性を考慮し、人としての判断にバイアスを欠けるのであろう。発達しすぎた社会はそれなりに不便なのである。

 

文責 平山修一

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