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面と点 そして個立

「これで別の生活ができると思ったのに・・・」
 BGM状態のテレビから流れてきた沈んだ男性の声に、手仕事の手を止めて思わず画面を見た。阪神淡路大震災以後表面化した問題のひとつに、元のコミュニティ温存の重要性があるが、嬉しいことに人間は「学習する生き物」であったようで、その後は避難所や仮住まい段階から様々な配慮がなされるようになった。
 冒頭の声は、ある被災地の集落がまとまって移転することになったのを、配慮のゆきとどいた処置として報じているニュース番組の中から聞こえてきたものである。画面が加工されていたので男性の年齢などは判らなかったが、続いた言葉から、分散居住によって、「自分に責任のない理由で集落のくびきから逃れられる」のを期待していた、ということが判った。

 長い年月で築き上げられた濃密な人間関係や、南の地の情景として報じられるのびやかで開放的な関係を「温かさ」など望ましい面ばかりで捉えがちであるが、温かさは柔らかい圧迫となり、無意識の自己規制が要所要所で発動されることもあるのではないか。この「温かさ」は、自分の来し方をリセットしてやり直すことを難しくさせる、という側面も持っている。
 この声の主にとって、被災は偶然に突然やってきたリセットのチャンスだったのではないだろうか。 近年あまり流行らないようであるが、「君子の交わりは淡きこと水の如く・・・」という荘子の言葉のような関係は、孤独(孤高)を好む、あるいは孤独を恐れない人間でなければ選択できない。
 このような点と点での人間関係を選択した者には、いつも家族以外の友人知人が寄り集う賑やかな笑いの絶えない老後生活は望み薄である。
 なお、「・・・・小人の交わりは甘きこと醴(甘酒の意)の如し」と続く莊子による君子と小人の定義は、「殉ずるところ仁義なれば俗にこれを君子という。殉ずるところ財貨なれば俗にこれを小人という」である。

 人間関係を濃密な面と面(時には丸ごと)で構築することを好むか、点と点での接触を好むかは個人の気質によるところが大きいが、どちらにしても、生きている場所に関わりなく、それを選択できる自由だけは確保したいものであると考えていたところ、某氏から、孤立ではなく「個立」という言葉を教えられた。
 面と点のどちらかの選択ではない中庸をいく道として、あるいは「個立」がヒントになるかもしれない。

 

文責 山本けいこ

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