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免疫

 筆者の中で最近、ひそかにマイブームとなっている言葉が「免疫」である。免疫とは防衛本能のひとつで、ある種の毒がその体内に入った時に、その毒に対抗できる力やシステム、物質を体内に持ち、次回から毒の侵入に対して耐性を体内に持つ事を言う。医療関係者によると、その免疫に関する理論は全く解明されていないそうである。つまり経験値としてのデータに沿って現代医療は免疫と言う作用を医学に利用しているのである。簡単に言えば「以前こうしたらこうなったから、今度もこうなるだろう」と推測して医療行為を行なっているのである。

 その異物を排除することなく、受け入れる事によってその毒への耐性を作り、またその毒性を自らに取り入れるのである。こうしてその個体は耐性が強くなっていくのである。ここで個体と言う言葉に代えて社会を使ってみると、面白いようにその意味合いが合う。タイの元首相は「免疫力のある社会」をスローガンに積極的な外資優遇処置を行なってきた。外資を毒と捉えるのはいささか抵抗があるが、タイは伝統的に多くの他民族を受け入れ混血を繰り返し、今まで独立と強固な社会を形成してきた。つまり社会秩序にとっては異質なものの受け入れは、必要不可欠ではないのか。異質なものの排除はその社会自体をも弱体化してしまうのである。異質なものの存在によって社会が外部社会に対する耐性を見につけ、より強固となるのである。

 現実は、従来家族や共同体が補い合ってきた助け合い部分の大半を地方自治体が請け負っているのである。介護保険然り、少子化対策、就業支援、、このように地方自治体が行う業務は我々の生活とは切っても切れないもので、しかもその業務量はいまや膨大になり、多くの公務員の業務時間は今では深夜・休日にまで及ぶという。
 小さい政府を目指さなければ成らないとプロパガンダのように繰り返し続けた小泉政権。既に世界中どこの国と比べても少なすぎる公務員数なのにこれ以上何を削減するのであろうか。本当に国民の為の改革だったのであろうか。

 今の日本社会は異質である事を排除する社会に思える。これでは社会的弱者や革新的ベンチャーにとって住みよい環境ではない。ましてや同一である事を強要されるのは非常に強いストレスが伴う行為である。自分と異質なものを排除すると、全て旨く行く様に思いがちである。しかし現実はその社会や団体のモチベーションや生産性は下がり、息詰まるのである。適度な毒は良薬であり、免疫をその社会や集団に作るのである。拡大解釈だが、一種の地球を一個の生命体と考えたときの免疫反応を地球温暖化と捉えられないかと。ではその時の異物は何になるのであろう。考えるのは非常に怖い事だが、地球にとって我々人間は地球にとって異物なのではないか。現在、時間とともに地球の温度分布が変わり、暖かい場所は暑い場所となり、人が住めなくなって荒地になるが、寒冷地は温暖化によって耕作適地になり今まで緑の無かった場所が緑になりつつある。

 これは考えように寄れば地球が自らの調和バランスを崩す人間(毒)に対して対抗しているように思えないであろうか?とはいえ、筆者は毒にも効用があるのだから大手を振って我々人類は地球に住んでいいのだと勝手に考えている。我々が住む事によって地球にも耐性が付くのだから。。。しかし排除されないようにあまり強い毒を出さない事も心がけねば!

 

文責 平山修一

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