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物に依存すること、物から自由になること

 日本は1950年代半ばから飛躍的な経済成長を経験し、戦後復興を成し遂げた。高度経済成長期には、庶民の生活の中で「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」の家電三種類を三種の神器といい、それらを所有し、使うことが便利な生活、豊かな生活の象徴となった。そして現代、巷には電子制御され、使用過程において私たちの「積極的関与」を無用なものにしてくれる最新の機器が溢れている。日々、便利になっていく生活の中で、私たちは、いつのまにか「物に依存し過ぎる状況」を産んでいるのではないだろうか。本文では、そのことについて論じてみたい。

 筆者は、2006年8月24日から9月27日まで、インド・ブータンを一人、バックパックを背負って貧乏旅行した。それぞれの国が固有のライフスタイルを持つように、インドやブータンにおいては、日本での常識からは考えられない世界が広がっている。現地の生活習慣に従えば、食事は、右手の人差し指・中指・薬指を揃えてスプーンの様にし、手で食べるのが普通であるし、トイレで用を足しても、紙が設置されていないから、水が入ったペットボトル等を使って、左手で流すことになる。洗濯機の普及も一般的ではないから、自分で手洗いするしか他に手立てはない。そこにはたくさんの不便さがあるし、多くの時間がかかる。

 しかし、そんな経験をしていくうちに、人間の身体には多くの「機能」があることに気付かされる。これがなければあれができない、という先入観を持っていると、自分が本来的に持っている身体的能力に気がつかなくなってしまう。物に頼らず、自分の身体を最大限使い、工夫し、何か物事を成し遂げる過程には、不思議と満足感があるものだ。沢木耕太郎も同様の所感を述べている、「次第に物から開放されていく。それが快かった」 と。

 「物を所有することは、物に所有される」ことであると筆者は感じる。現代の機械は確かに便利で、時間や労力の節約に大きく寄与している。しかし、依存し過ぎることで、人間が本来持っていた「生きる力」を最大限発揮できなくなっているのではないだろうか。確かに日々の生活に浸透している文明の利器を全否定することは出来ない。しかし、重要なのは両者のバランスである。時間があるときは、機械に頼らず、自分の身体で出来ることは自分でやるという意識を持ち、実践していくことも、生活を「豊か」にしてくれる大切な要素である。

 

文責 斉藤光弘

参考文献  沢木耕太郎『深夜特急3―インド・ネパール―』新潮社、1994年、p.105

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