<< 一つ前のコラムへ 次のコラムへ >>

笑顔の量=幸福の量(?!)

 少し前に「ヒマラヤに輝く笑顔遺産」というタイトルでブータンを紹介した番組が日本で話題を呼びました。内容を私自身詳しく見てはいないのですが「貧しいけれどみな笑顔で心豊かな国」といった人々の生活を紹介した番組だったと聞いています。今の日本の特に都市部における無表情が多い社会の人々には特に新鮮に感じられたのではないかと思います。自分の住むストレスに囲まれたしかめ面の社会よりはストレスが少なく「笑顔」の多い映像はなんとも眩く幸せに見えたことでしょう。たしかに都会の子供から消えてしまった屈託のない笑顔などは見ているだけでも何とも微笑ましいものです。しかしそこには単純に
「笑顔の量=幸福の量」
という数式しか存在していないように感じられます。最近社会全体の傾向として「笑顔・楽しい・ハッピー」といったドライな軽い感じがもてはやされており、逆に「悲壮感・考え込む」といった行為や、そういった感じの人がいると「なんか、アブナイ感じ」といってあまり歓迎されない風潮があるように思えます。もちろん私自身「笑顔・楽しい・ハッピー」で毎日を過ごせればこれに超した事はないと思いますしその様な人を見ると大変羨ましく思います。しかしそれでよいのかな?「幸福である」という基準において先に述べた数式が正しいのかどうか時々考えこみます。

 もう6年程前の事ですがイギリスのテート美術館に立ち寄った時の事。そこで思いがけない経験をしました。シェークスピアの代表作『ハムレット』で悲劇の女性を演じるオフェーリアを題材にした絵をご存じでしょうか。その哀しみに打ちひしがれた表情で水に漂う美しい女性の表情に引き込まれ、人工物である絵を相手に離れたり近づいたりと結局閉館の時間までその場を離れる事が出来ませんでした。絵に限らず皆さんにもこの様な経験が一度はあるでしょう。私たちの感情の中には笑顔をみて微笑ましく感じるのとは別に人の哀しみや苦しい表情の中にも「美しい」と強く感じる部分もあるようです。仏教の世界には「一切皆苦」という人生の本質を表現した言葉があります。日本から見れば幸せに見えるヒマラヤの小国でも日本にはない我々の創造を越えた過酷な生活やその中で生き抜いていく苦労があります。その中で見られる「笑顔」は苦渋の人生の中でみられる一瞬の輝きとでも言えるのではないでしょうか。
 古中国哲学の五行論の中では感情も5つ(怒・喜・思・憂・恐)に分類されそのバランスを常に訴えています。笑顔を連想させる「喜」については「喜びが過ぎると心を破る」と忠告もしています。「喜」以外のものをみてみると何かネガティブな感情の印象を受けます。実際の生活の中でも「喜」以外の感情をさらけ出す事に何か恥ずかしい感覚がありますよね。それを見せないのが自立した大人であるという感覚があります。

 ブータンに話を戻すと、ブータンでは今でも日本で昔見られていたような家族・親戚を中心とした社会生活が営まれています。その中では普通に怒ったり泣いたりと他人の目を気にしない非常にストレートな感情表現が行われています。それに比べると個人主義の進んだ今の日本では他人に苦しみや悩みを悟られ「暗い人間」と思われてはいけない!という強い強迫観念の中で社会が営まれているように思えてなりません。先に述べた「一切皆苦」を肯定するのであれば我々の生活にはいつでも楽しい事ばかりが続く事はありません。その時々で怒ったり、泣いたり、考え込んだりといった感情から生じる行為はごく人間として自然な正しい心の働きに沿った感情表現だと思います。その表現をいつでも誰かにストレートに表現できたとしたらとても「幸せ」な社会環境だとは思いませんか。それが出来ず感情を抑えこみ「笑顔」を周囲に振りまき、そのために溜まりに溜まったところで多くの人達がノイローゼになったり暴力に走ったりしている例が多く見られているのが今の私たちの社会のように思えます。

「笑顔」を作ることは現在地上に生きる生物の中で人間にのみ与えられている特権です。最高の笑顔を作り笑顔の多い社会を作り出すために今一度、私と一緒に「しかめ面で」社会についてよく考えてみませんか。

 

文責 高田忠典

<< 一つ前のコラムへ 次のコラムへ >>