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幸福と満足は相反する

 先日、尊敬する京都大学名誉教授の新宮先生の論文を読み返していた。すると、先生のお考えでは「幸福と満足は相反する」との事であった。この考え方を自分なりに当てはめてみると面白いように自分を取り巻く多くの物事が見えてきた。
 「貴方は今の生活に満足していますか?」良く聞く質問である。筆者はこう聞かれたら間違い無くNoと答える。まだまだ生活にも知識欲にも十分に現状は充足感を与えてくれていないからである。

 しかし、「貴方は今、幸せですか?」と聞かれたとすれば、間違いなくYesと答えるであろう。今の筆者の生活は日々充実し、発見の連続だからである。まだまだやりたい事が多く、時間が足りないと思える事は幸せ以外の何者でもないと思う。
 物質的(名誉)に満足した状態は長続きせず、その当初の目標以上のもの(所有)を望む事で新たな満足を得ようと人間は行動する。それは有限の資源や自然環境の社会では破滅的な結果を招くのではないであろうか。まさに満足は幸福と正比例しないのであろう。
 結局、人間は何を持って幸福と感じるのであろうか?物質的な充足を第一目的としていた時代は、その物質的なものを得るために努力する過程やその物質を得た喜びなどの心の動きは幸せを感じるのに十分であったであろう。

 しかし、今の供給が需要を創造する時代にはこの考え方には自ずと限界があるように思える。既に充足した消費者に対して危機感や不安感をあおり、新たなニーズを生み出し、その充足によって人々が安心という心の動きをえる。
 この手法によれば一時的な幸福感を得ることができるであろうが、もうこの手法は限界ではないか。そろそろ消費拡大型の思考からの脱却が必要ではないであろうか。人間は思考する動物である。思考こそは無限で、思考にまつわる満足や気づきこそ幸福感に繋がるのではないであろうか。

 この思考による心の動きこそが幸福を感じる元になるとしたら、それこそ無限に拡大し続けるものではないであろうか。しかし、思考にはジレンマやストレスは付き物である。これを乗り越えるだけの精神力が無いと思考による幸福感は得られないであろう。
 先述の新宮先生はまた「幸福になったら幸福か?」という問いをしている。これもまた人間心理の妙で、まさに幸福な状態において日々幸福を実感するのはよほど精神性の高い人物か、もしくはよっぽど金銭的に恵まれた人である。

 GNH思想では、「幸福に至る為にいろいろ考える過程が重要で、結果を求めるものではない」と解いている。タイでも今年策定された国家経済開発の目標は「セータギット・ポーピアン(足るを知る経済)」である。物事を突き詰めないでその考える過程を大事にして、ほどほどの状態で満足しようじゃあないかという考え方である。
 筆者のような凡庸な人間はほどほどの所で満足している事が幸福に繋がるのではないか。そう思って日々の小さな発見や小さな喜びを自分の身の回りに提供し続けようと思う。そうすればスケールの小さな段階では幸福と満足は正比例するのではないか。

 自分の欲をスケールの小さい段階に制御できる、これこそが幸福になる為の第一歩であると思う。そういう意味でも新宮先生の「節制は幸福の基礎である」という考え方は大きくうなずけるのである。

 

文責 平山修一

[参考文献]  新宮秀夫「節約は最大の資源・幸福」『資源・エネルギー』2006年3月より一部参考

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