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見返りを期待しない事

 日常生活では様々な人間関係に基づくトラブルは耐えない。そのトラブルの大半が、自分が相手にしてあげた行為に対して相手が感謝してくれない、またはその行為に見合ったものを返さないと言った事に起因しているのではないか。
 元来、誰しも育った環境や文化は人それぞれである。ましてや人間関係の姿勢や物事の受け取り方、感謝の念を示すやり方など、百人百様である。しかし、頭では理解できてはいても「何でこうしてくれないの?」と、湧き上がる感情を抑えられないのも事実である。
 日本人の多くは相手に対して親切にすると何となく相手からの感謝の念を期待しがちである。以前は筆者も他者への好意に対して、何らかの見返りもしくは反応が返ってきて当然であると考えていた。

 タイで働いていると、タイ人が相手に「ありがとう」や「すみません」と頻繁に言っている事に気が付く。そして言われているタイ人も「いやいや」と言いつつ、その感謝の言葉を待っているかの態度である。タイのみならず日本も同じような習慣を持っている。しかし先日旅行で行ったブルネイは違っていた。
 ブルネイの郊外、炎天下の海岸沿いの町で、何十分も来ないバスをひたすら待っているときの事であった。一人の男性が「町まで送っていこうか」と筆者に声をかけてくれた。私はすかさず「お金はいくらですか?」と話しかけた。
 彼は英語があまり理解できないみたいだったが、乗れと言う素振りを何度もするので、取り敢えず乗せてもらった。そして町に着き、車を降りた時、彼はこちらがありがとうを言う前にもう目の前から消えていた。

 筆者は彼の好意を素直に受け取れなかった自分を恥じた。しかし、多くの途上国を旅すると同じような状況では必ず金銭を要求され、それが自分の中での常識になっていた。それだけ、我々が生きている社会は「見返りを期待する」社会なのかもしれない。だからこそこのブルネイでの出来事は筆者には新鮮に映った。
 ブルネイでこんな気持ちに成れたのも、「折角行くからには・・・」と思いがちな「旅行による見返り」を期待しないで行ったからかもしれない。実は、何かを(相手に)期待する行為は自分の心に縛りをかけているのかもしれない。

 人間、自然体で他人に親切が出来るなんて、実に素敵な事ではなかろうか。進んで社会に対して自分の尺度の中でよいと思われる行為をしてみよう。そしてその行為を行っている自分に誇りを持とう。
 ブルネイの旅は「見返りを期待しない生き方は意外と自分の心を楽にしてくれるのかもしれない」事を自分に気が付かせてくれた実り多いものだった。

 

文責 平山修一

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