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治安の良い日本社会を

 先日の高田のコラムに「未病」の件が記載されていたが、まさに現代社会は未だ病気の状態ではないと言える。確かにマスコミではセンセーショナルに一部の突飛な行動を報道する。それは報道の使命なので仕方が無いが、その報道を期待しての愉快犯、自己表現を間違った方向でしようとしている人たちによって利用されてしまう。そしていつか気がついたら不安が不安を呼び、日本社会は「治安の悪い状態」であると認識されることが常識となっている。

 果たして日本は現在危険な社会なのであろうか。何と比べて危険かどうかを判断するのが非常に難しいが、筆者はあえて数十年前の日本(つまり筆者の記憶にある昔の日本)と比べてみる。
 昔の日本はあえて言うなら安全な場所とそうでない場所とが分けられていた気がする。一般の社会で暮らす分には今より治安は各段に良かった。それは地域の目が光っており、今より社会の死角が少なかったからであろう。
 今は昔で言うところの安全でない場所まで一見安全であり、場所による区別がなくなりつつある。しかし、逆に言えばそれは「どの場所も危険」である事を表している。地域の目が以前よりも光っておらず、犯罪すら身近な社会になってしまったのではないか。
 先述したハインリッヒの法則を引用すれば「ひとつの重大災害が起きるその背景には、29件の小規模の災害があり、300件のニアミスが潜んでいる」といえる。つまりひとつの重大災害は突然起きたのではなく、その予兆が日常からあったという考え方である。

 ひとつの未遂事件の裏には多くの予兆や原因が考えられる。それは時代の流れが個人主義に陥った事とは無関係ではないであろう。個人が自立もしくは俗な言い方をすれば「目だたない」といけない、集団に埋没する事を悪いこととする風潮がポイントではないかと筆者は考えている。
「有名になりたかった」、「この犯罪を通じて自分という存在を世間に知らしめたかった・・」これが犯罪の理由なのかと思うほど、今の犯罪の多くは自己主張のエゴの塊である。生活苦や貧困の為、、といった筋のものでもない。

 集団に埋没する事が何故いけないのであろうか。突飛な行動を取らなくてもお互いがお互いの個性を認めあう社会がベースにあればこのような犯罪は起きないのではなかろうか?人はそんなに多くの人に認めてもらわなければ生きていけないのであろうか?
 筆者は思う、平凡に生きる事こそすばらしいと。自分を、自分の個性を尊重してくれる共同体の中で生きていければ、人は過激な自己主張をしなくても精神的に安定しているのではなかろうか?
 もし日本がそのように社会を再構築できるのであれば、以前の治安の良い日本社会に戻ることが出来る状態にあると思う。その為にGNH思想が出来る事は数多いと感じるのである。

 

文責 平山修一

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