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一生懸命

 一生懸命という言葉は、私は好きな言葉の一つである。まさに汗、誠実、手作りなどの単語を連想させるこの言葉は私にとって美徳とも言える。額に汗して、自分の信じる事を継続する、それは崇高な行為だと勝手に思っている。
 努力すれば報われる。これは親が私に繰り返し言ってくれた言葉であった。そしてこの言葉は義理の親父がもっとも好きな言葉であり、私と義父との距離を縮めた考え方でもあった。義父は一生懸命働いて、自分の会社を持った努力の人である。

 筆者はこの価値観は万人に共通のものだと数年前まで信じていた。しかし、多くの途上国体験で、その価値観は一部の人の物だという事を体感し、ショックを覚えた。そして自分がいかにその価値観に縛られているかも理解してしまった。
 また一生懸命である事を他人に強要することは欺瞞である事も知った。つまり一生懸命にする事は内発的な行為では快感であるが、外発的だとそれは負担以外の何者でもないのである。一生懸命は下手をすると押し付け以外の何物でもない・・・これでは困る。

 先日、NHKの国際放送でライブドア問題を特集する番組を紹介した。ライブドア問題自体は国策捜査だと個人的に認識しており、あまり興味はないが、昨今、渦中の人となっているホリエモンの一言に驚きを隠せなかった。
 「僕は努力して儲けるのは嫌いです。一生懸命努力して額に汗を浮かべて働くより、楽をしてお金持ちになりたい」こう述べているホリエモンは多分正直な人なのであろう。そしてその事を身を持って実践した人なのと思う。
 個人の行為の評価はさておき、筆者が驚くのは「彼が楽をして金持ちになった」事実自体にある。そういった事が可能なのか、そういった社会は健全なのか。筆者のような古い価値観の人間は、淘汰されていく存在なのであろうか。。。今の世の中は本当に白黒付けにくい。

 一生懸命、、、筆者が働くタイではあまり見かけない行為である。一生懸命に出来ない、しないなにかの理由がその背景にはある。物事には必ず理由があり、そしてその事を容認するような歴史がある。多様な価値観を尊重しようと頭では分かっているのだが納得いかない。。。
 もし一生懸命が他の調和を乱す行為だとしたら。。。。やはり努力は隠れてやる、という事が一番必要なのであろうか。日本において一生懸命が美徳であった時代は幸せだったのかもしれないとふと思うこの頃であった。

 今の世の中では考えられない切腹(自殺)の制度。しかし今からたった140年ほど前の日本社会には存在した。この自らの命を絶つという行為は今にしてみればなんとも馬鹿げた制度だと思う。まだ家庭も持っていない私が自分の人生を自ら絶つなどという行為はとうてい理解出来ない。自殺ですら考えられないのに,自分の腹に短刀を刺して腹をえぐる様な切腹は,尚のこと理解出来ない。しかし,実際には家族を持っている持っていないに関わらず,過去の日本では切腹は行われていた。なぜ自らの人生を絶つ様な行為が行われていたのであろう。

 一般的に「復仇」,「敵討ち」等は平成の日本では存在しないであろう。法治国家となってからの日本は,通常は誰かが罪を犯せば,敵討ちとして被害者,及び被害者家族が加害者に対して殴り込むようなことはない。法律に則って罪を犯した人が裁かれて,加害者は刑に服したり,金銭を払う事によって済まされている。よっぽどの罪を犯さない限りは,死刑を宣告される事もない。しかし,裁判所によって刑を宣告されたとしても,世論が納得しない場合も存在する。きちんとした手続きを踏んでいるにもかかわらず,凝りを残したりする場合も存在する。司法では裁ききれないものが我々の心には依然として存在するのではないだろうか。

 過去の日本においては,私の以前のコラム『日本向けGNH 武士道より「名誉」』でも書いたとおり,己の使命を“これだ!”と信じ,使命に向かって突き進む事を誉れとしていたようだ。『真の名誉は天の命ずるところを果たすにあり,これがために死を招くも決して不名誉ではない(新渡戸稲造著(1899),矢内原忠雄訳(1938) 武士道 岩波文庫より一部引用)』とあるように,なぜ自分がこの世に生まれてきたのかをきちんと理解し,その為に己の全てをかける。結果がどうあれ,その使命に向かって突き進む過程を重視していたのであろう。

 法治国家となった現在においても,被害者家族には凝りを残す後味の悪い終わり方である。それは加害者が裁判によって裁かれようとも,使命を果たす事の出来なかった被害者は帰ってこない。使命を果たす事が出来なかったのはやはり不幸な事では無かろうか,その裏返しとして,使命を果たす事の出来た人は“幸せ”といえるだろう。

 

文責 平山修一

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