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日本向けGNH 武士道より「克己」

 私自身が小学生の頃,友達と喧嘩をして勝つときがあれば,負けるときもあった。そんな喧嘩で負けた時,やはり悔しい思いをして泣いたときもある。しかし実際に涙を流してワンワン泣くような事はなかった。涙をこらえ,そして悔しさを隠すのが常であった。それは大人になってからも同様である。感情が高ぶったのを極力表に出すことなく,唇を噛み締めて感情を押し殺そうとするのが常であった。

 大学生卒業間近の頃,初の海外旅行でアメリカへ行った。初めて踏みしめる異国の土地で初めて出会う異国の方々。テレビに写る番組や,現地の方とのコミュニケーションはとても新鮮であった。日本人同士でコミュニケーションを取るのとは明らかに違ったからだ。当時の私からすると“身振り手振りを交えた大げさなリアクションをしなくても,意思疎通は十二分に出来るのに,どうしてあんなにも大きなリアクションをするのか”と,とても不思議であった。一般的には感情を隠そうとする日本人,感情を表に出す英語圏の方々,その違いは何であろうか。

 “克つ”とは『おさえ難いものを努力して押さえつける(広辞苑 第五版 岩波新書)』とある。悔しいとき,悲しいとき,怒っているとき等は“おさえ難い感情”であると思う。この抑え難い感情を抑えようとする行動は,新渡戸稲造の武士道の中にも次のように記されている。『感情の動いた瞬間これを隠す為に唇を閉じようと努むるは,東洋人の心のひねくれでは全然ない。我が国民においては言語をしばしば,かのフランス人【タレラン】の定義したるごとく「思想を隠す技術」である(新渡戸稲造著(1899),矢内原忠雄訳(1938) 武士道 岩波文庫より一部引用)』更には『武士が感情を面に現すは男らしくないと考えられた。「喜怒色を現わさず」とは,偉大なる人物を評する場合に用いらるる句であった』多少の事では動じない精神を持つ事は,過去日本の武士社会において“偉大なる人物”の条件であった。

 人と人が衝突したとき,お互いの感情を剥き出しにしてしまっては,お互いの感情を必要以上に高ぶらせてしまい,争いをより一層大きなものへと膨らませてしまわないだろうか。その一方,感情が動いたときに唇を噛み締めて感情を押し殺そうと努力する「武士道」の精神は,必要以上に事を大げさにする事を避けるのに役立つのでは無かろうか。必要以上の争いごとを避けるように作用する国民性。その根底にある“武士道の精神”は平和な社会,安定的な社会を築くのに有益な精神であると思う。

 

文責 瀬畑陽介

[参考文献]  新渡戸稲造著,矢内原忠雄訳『武士道』岩波文庫,1938年

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