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Incarnation

 GNHを研究して何になるの?と良く身近な人に聞かれる。確かに幸せの研究と聞けば、少し怪しくも聞こえるし、「宗教関係者ですか?」といわれるのが落ちである。日本で宗教を小馬鹿にする風潮には反旗を翻したいが、それは次の機会に論じるとして、筆者はこの「研究をして何になる」という言葉に今の日本人の思考パターンを見出している。
 それは従来の研究というイメージが、机上の空論と結びついていたからであろうか?そういう風に研究というものに対してレッテルを貼り、多くの人は無心に、現業を推し進めていく事に躍起となっていたからであろうか。

 社会が新しいものを生み出す力を持っている時、その社会の大衆は幸せである。それはその社会の向かっている方向が正しいか正しくないかは別にして、大衆は同じ方向を考えなくして向いているだけで社会との一体感を得られるからである。
 しかし、今までの歴史を振り返ると、その思考停止状態が生み出す幸せは持続的なものは少なく、多くはポピュリズムやファシズムに連動している。それは一握りの扇動者(先導者)によって社会の方向性が決められた為ではないか。
 そうではなく、小さな集団にて個人が自然と誰かが提唱した理念に基づき、それを消化し、考え、そして動きを起し、そしてそれが大きな動きになっていく。そうして定まった方向性がある社会に属する事も幸せではなかろうか。

 筆者が研究を続ける理由はただ一つ「Incarnation・・・ 理念は現実になる」という思想を信じているからである。ただ一つ付け加えておかなければならないのは、筆者はネオコン(新保守主義)では無いと言う事である。

 新保守主義ではいわゆる知識層といわれる層は大衆の無責任体質を考慮した上で自由主義的な発言をする役割があるとされている。つまり大衆の判断能力や選択能力は低く、それらを指導していく知識層は、その社会的な使命+責任を持つとされている。
 しかし、筆者は大衆こそ理念を現実化する力を持っていると信じている。だからこそ筆者は大衆の一人であり続けたいし、研究はあくまでも現実の世界に応用可能なものでなければ意味が無いと考えている。

 筆者は研究の成果はトップダウンで浸透するものではなく、同時多発的に起こるべきものだとも考えている。ルパード・シェルドレイクの著書「百一匹目のサル」のように一定量の大衆が考えを共にしたとき、その理念は現実になると。

 

文責 平山修一

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