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小田和正から学んだこと

 小田和正がもう50歳を過ぎている事に最近気がついた。彼は団塊の世代の一人である。確かに筆者が20数年前にオフコース時代の彼の音楽を聞いていたのだから、当然といえば当然である。今でも、彼の音楽を聴いて、子供心に何故か妙に共感していた事を覚えている。

 音楽はマスコミの果たす機能と同様にその社会に与える影響は大きい。多くの時代はその時代のはやり歌と共に語られることが多い。しかし、それも昔の話で今は「多様化の時代」、「人と違うことに価値がある(人と違うことに自分の価値を見出す)」といわれる時代なので、世代を跨いで歌われている歌は数少ない。
 世代を跨ぐ歌は近年でいえば「世界に一つだけの花」や「川の流れのように」といったところであろうか。これらの歌には時代背景があり、それを歌うカリスマの存在があってこそ世代を跨いで歌い継がれると思う。小田はその可能性を持っている数少ないアーティストであると筆者は考えている。

 小田の世間に対するスタンスはこの数年で劇的に変化した。小田の音楽に対するスタンスはとてもストイックなものである。妥協を他者にも許さず、小田の納得いく音楽になるまでその創作活動は続くという。
 しかし、先日のAERAの小田に対するインタビューを読んだ所、多くの発見があった。小田が近年何故評価され、多くの世代に愛されているかが分かった気がした。
 「俗への嫌悪と聖への憧憬が小田をずっと縛ってきたように思える」、「無防備な自分が面白がられる。鎧を脱いだ自分で勝負する」、「聴く人を楽しませる」、「積極的に自分を歌う」、AERA誌上に綴られていたコメントである。
 そうありのままの自分は意外と世間に受け入れられるのである。ただしそのありのままと言う状態は、あくまでも自己のわがままと言う意味ではなく、無理をしない自然体であることを指していると思う。
 あくまでも完璧な音楽/曲つくりにこだわり続けてきた小田だからこそ、この俗っぽい「等身大の自分」を通して得ることが多かったのだろう。そしてそれが彼の大きな飛躍の一歩となり、世代を超越する原動力となったのであろう。

 学問も然り、いつまでも孤高の人であって誰の妥協も許さないスタンスを持つこともある程度は必要であろう。しかし、社会の変革を促す大きな要素はその頒布性にあると感じる。社会に応用できる学問はあくまでも社会の日々の生活の中にあるのである。
 GNHの理論は非常に崇高である。仏教のエッセンスとブータンの風土や歴史を感じることが出来る。しかし、逆に言えば非常に俗っぽい要素も兼ね備えている。猥雑さと完璧さの共存は優れた創造者に共通の傾向である。つまり俗の中に聖があると言った感じで、俗と聖、どちらかのスタンスに偏っていては見えてこない包括的な創造的な理論である。
 社会の幸福を追求するには完璧に近い理論を研究することになるのであろうが、個人の幸福は机の上では分からないものである。よって本研究所の、世間の事象をGNHというコンセプトを通してコメントしていく過程で新しい発見を見つけるという研究手法は、自然体でその俗なものを聖なる理論で分析しないとその情報の本質を捉えきれないのである。

 物事を一般化するのには非常に多くの要素と労力が必要となる。世代を跨ぐ歌を作るのも同様である。また、幸福を追求しようというこのGNH研究も然りである。筆者も小田を見習い、批判を恐れず、自然体に自分の考え/研究を実践に移したいものである。等身大の自分の目線で。

 

文責 平山修一

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