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国民参加でつくる社会生活

 久々に日本に足を運んだ。今年は例年より寒さが厳しいという。骨にまで染み入るような寒気、ヒマラヤの方がまだ暖かいように思える。しかしながら改めて美しい国である。故郷には山があり海がある。無数の小島に寄せるさざなみは海のないブータンの人々の目にはどのように映るのだろうなどと考える。町並みも極めて清潔であり住んでいる人たちのマナーもすばらしい。連日テレビで報道されている悲惨なニュースとのギャップが不思議でたまらない。

 東洋医学の世界に「未病」という症例があることを以前「東洋医学とGNH」の中で述べた。「未(いま)だ、病(やまい)にあらず」の意味である。病院の検査で病名にも挙げられない不定愁訴と呼ばれる症状や将来病気に結びつく可能性のある肥満や喫煙なども含む。しかしその範疇は体の不調だけではない。我々の生活においては無理解・無関心、虚言、交通違反、くちげんか、ストレス等それぞれは未病状態であり犯罪や殺人、死亡事故などの大きなトラブルへと発展する可能性をもつ「種」である。今回の帰省で一番驚いたのは町内にいる高齢者人口の増加だ。著者の実家のある長崎県の人口減少率は全国でも第2位を占める。頭では判っていたつもりであるがここまで身近なものに感じられるとは思ってもいなかった。これら多くの高齢者は苦労の時期を乗り越えてこられた方々ばかりである。そのおかげで社会は豊かになり自分の生活を行っていく上でたとえ政治に無関心でも何とかやってくることができた。しかし今後ひとつひとつの政策が自分の生活に強い影響を及ぼす以上、国民・市民として政治に無関心ではいられない。地方に至るまで市民の政治参加が盛んになっていくことだろう。これから税制改革、医療改革の嵐が吹き荒れ、財政に余裕のない政府または自治体は今までのように「オンブに抱っこ」というわけにはいかないのだから自分の身は自分で守らなければならない。気が付いたときに「知らなかった」では済まされない多くの事態がでてくる。歴史の中で自由を勝ち取ったことのない我が国民は権利を主張するがそこに義務が生じている事を理解する機会が少なかろうか。その「無関心」が多くの人々の中で大きな障害に繋がる病の種を潜ませ我々はそのことに気づかないまま社会生活を営んでいるとも言えよう。

 日本全体を見れば経済第二位の先進国であり、幸いにも他の国と比べ大規模な失業・飢餓・テロといった問題も浮上していない。しかし市民の政治参加という点においては欧米の取り組みに大きな遅れをとっている。世界第一位の高齢化社会の生活を営む日本の細胞となる高齢者に対し政府・自治体の解りやすい政治、およびサポートが要求される時代となる。また国民および市民が自ら「幸福」を享受するために困難に立ち向かい政治に参加・学習に取り組んだ時、手作りの民主主義国家・日本が誕生するのである。

 

文責 高田忠典

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