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日本向けGNH 武士道より「礼」(下)

 私が子供のころ両親と共に親戚従兄弟へ年末年始などの挨拶へ行くとき,両親は私の目には高価に映る贈り物を持っていっていたと思う。しかし,いざ贈り物を渡すときになると両親は決ってこう言いながら渡す。「つまらない物ですが…」私の目には高価に思えた物をどうして“つまらない物”と言いながら渡すのか子供心に大変不思議であった。

 今にして思えば私はその言葉を文字通りに受け止めていた。しかし,“つまらない物”と言って渡すときの心は『君は善い方です,いかなる善き物も君には適わしくありません。~中略~この品物をば物自身の価値の故にでなく,記として受け取ってください。最善の贈物でも,それをば君にふさわしき程に善いと呼ぶことは,君の価値に対する侮辱であります。(新渡戸稲造著(1899),矢内原忠雄訳(1938) 武士道 岩波文庫より一部引用)』とあるように贈り物の価値について言っているのではなかった。更には私が小さい時,伯父さんから「贈り物を選ぶがために貴重な時間を割いてくれた。その気持ちもまた嬉しい」と言われたことがある。日本人が贈り物をする事の本質は,“贈り物の価値”よりも“贈り物を差し出す精神”が重要であるようだ。

 一般的にアメリカ人は,贈り物をするときに贈り物がいかに優れているかを述べつつ渡すと聞く。この真意は新渡戸稲造が「武士道」の中でも言っているように『これは善い贈物です。善い物でなければ,私はあえてこれを君に贈りません。善いものでなければ,善き物以外の物を君に贈るのは侮辱ですから』と贈り物の価値を引き合いに出し,相手に感謝の気持ちを表現している。一方一般的に日本人は,先に引用したように贈り物を差し出す精神について言っている。どちらも感謝の意を表現する手段に違いはない。

 アメリカ式では相手により一層“感謝の意”を表す為には,より高価な贈り物が必要となるのではなかろうか。どちらも“感謝の意を表す”手段なので一方を否定するつもりはないが,日本式ではあくまで贈り物は“感謝の印”に過ぎず,贈り物の価値に関わらず直接相手の心へ訴えて感謝の気持ちを十二分に表現できる。

“感謝をする時には相手の心へ直接訴える”これは人と人の心が直接接している証ではなかろうか。「礼」を通じて自ずとお互いの繋がりが強くなり,協力しあう気持ちが芽生えるであろう。個と個の繋がりが強くなれば,その繋がりは社会へと波及するであろう。ちょうど個と個の繋がりが強いブータン王国の社会のように。そして,かつての江戸時代の日本のように。それは安定と安全を兼ね備えた持続的な発展する社会へ繋がると思う。

 

文責 瀬畑陽介

参考文献  新渡戸稲造著,矢内原忠雄訳『武士道』岩波文庫,1938年

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