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日本向けGNH 武士道より「礼」(上)

 私が始めて京都へ行った時,大河内山荘にて庭園を眺めながら頂くお茶とお菓子は美味しかった。本来,お茶にはきちんとした作法がある。その作法を心得ていない私には,作法を守りながら飲んでいては美味しくないと思えてしまう。素人考えで“くつろぎの時なのだから肩肘張らずに自分のペースにて飲みたい”と思っていた。

 しかし私が下らないと思っていた茶道は当然ながらとんでもなく奥が深かった。『茶の湯は礼法以上のものである。それは芸術である。それは律動的なる動作をば韻律となす詩である。それは精神修養の実行形式である。(新渡戸稲造著(1899),矢内原忠雄訳(1938) 武士道 岩波文庫より一部引用)』とあるように作法のみならず,精神修養にも役立つとは思いもしなかった。という事は人格形成にも役立っている事になる。

 新渡戸稲造は「武士道」の中でこうも言っている。『一つの事を極めれば、それは芸術にまで到達する』と。さらには『優美は力の経済を意味するとの言が果たして真であれば,~中略~優雅なる作法の絶えざる実行は力の予備と蓄積をもたらすに違いない』この仮説が正しければ,何事も極めればそれはもっとも体力を温存した行動方法になると思う。“道”の様に極める事によって茶道に限らず優美でありながらしかも体力を温存できるであろう。その他日本には“剣道”もある。剣を扱うのにも“道”があるならば,剣を仕事上の道具としていた武士も“剣道”を通してもっとも効率的な道具の使用法を会得して体力を温存し,更には心を絶えず練り人格形成を進めていたのではなかろうか。

 仕事の中にまで芸術的なセンスを持ち込んでいた我々の祖先。それは単に芸術的なだけでなく“効率的に仕事をすすめる”という実用的な面も持ち合わせていたと言えよう。現在,多くの日本人は日々仕事に追われて忙しくしている。“忙しい”は“心を亡くす”と書く。疲れていれば気持の余裕が亡くなるであろう。多少なりとも力を蓄積出来れば,余力を常に残す事が出来て気持にも余裕を生むと思う。現代人の仕事を“道”として極める事は難しいと思うが,過去には仕事の中に取り入れていた日本人。この考えを少しでも受け継ぐ事が出来たならば力に余裕が生じて心を亡くしている状態を少しでも減らす事が出来るのではないかと思う。更には“優れた人格形成にも役立つ”とあっては,武士道の本質は会社,社会発展の為にも大いに貢献できる考え方ではなかろうか。

 

文責 瀬畑陽介

参考文献  新渡戸稲造著,矢内原忠雄訳『武士道』岩波文庫,1938年

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