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途上国と先進国の違いって

 途上国で暮らしていると「何故この国はいつまでも途上国なのだろう」と考えることがある。途上国の人も今では教育の機会が多くなり、首都を見る限り、どの国の建物も立派で、街には外国製品や食料があふれている。
 でも一旦首都から郊外に目を転じると、そこには至る所に国家の矛盾というべきものが見ることが出来る。近代化されたビルの谷間に広がるバラック小屋、犬の死体が流れる河の水で洗濯する人々、穴だらけの道路、至る所に捨てられた生ゴミなど様々である。

 では途上国と先進国の違いは何であろうと考えると、UNなどの定義ではGNPなどで判断するのだろうが、筆者は1.公共意識、2.社会基盤の整備、3.行政システム(ガバナンス)、4.公平性が大きく関わっているのではないかと考えている。
 例えば、公共料金の支払い一つとてもそうである。日本では自動的に毎月ある特定の決められた日に銀行の口座より引き落としがされる。これはこれで何をいくら引き落とされたのかが把握し辛い為、問題はあるのだが、明確であることは確かである。
 しかしブータンを例に取ると、先ず、銀行引き落としの制度が無い。公共料金はすべて自分で公共機関の払い込み窓口にいかなければならない。払い込みが可能なのは月曜日から金曜日までの朝9時から4時まで、つまり自分が働いている時間帯でしかない。
 しかも払う場所が首都ですら、公共料金ごとに一ヶ所しかない為、お金を払うために長い列に並び、相当待たされることを覚悟しなければならない。この作業を電気、水道、電話としなければならないのである。
 それに加えて、払い込む金額がたまに間違っていたりする。隣の家の分も加算されていたり、メーターの読み間違い、掛けた覚えの無い電話代の請求などざらである。しかも請求書の来る日付はまちまちなのに、払い込みが遅れた場合の追徴金はしっかりと取る。本当に自分ですべて確認する必要があり、油断も隙も無いのである。

 日本も以前は同じ状態だったと思う。では何が決定的に違うのだろうか。日本では先ず、主婦が払いに行けたことと、勤勉できちんとした事を好む国民性があったからこそ戦後の経済発展があったのであろう。
 その几帳面さは何によって育成されてきたのであろう。そのキーワードとなるのは「世間様の目」だったのではないであろうか。「誰も見てないと思ったら大間違いだよ。御天等様は見ているよ」と常に母親に言われていた。このように常に他人を意識しているからこそ、自分を律し、人に迷惑を掛けることを極端に嫌いようになったのではないかと筆者は推測する。「ばちがあたる」という風に世間様という具体的に特定できない存在によって、自制してきたのである。
 この価値観はアジアの農村社会では一般的ではなかったのではないかと筆者は思う。それは村社会にて関係性を重視して生きざるを得ない中での知恵ではなかろうか。狭い社会で良好な人間関係を維持するためには、共通の畏怖の念を持つ、超法規的な存在が必要だったのではないだろうかと筆者は推測する。

 次に仕事を通じてその違いを痛切に感じることがある。それはセクショナリズムである。日本の一部の官僚主義と大差が無いという辛口の意見もよく耳にはするが、まさに縦割りそのものである。
 今まで、ブータンにおける業務は、その地理的、気候的特性や、インフラ整備の遅れを理由に、その迅速さや正確さを要求される事が多くなかったように思えます。昨今の時代背景の中、政府機関は、多くの国際機関等の援助に対する報告義務や、その予算使用の正確性や透明性を求められています。とりわけ国際機関から「マネージメントの改善」を要求されることが多くなりました。
 ブータンでも同じ省の他部課が資材を持っているのに、それを共有できず、仕事に支障をきたしているケースや、同じ省の他部課の持っている情報をリクエストしても「機密上」の理由で断られる事は日常茶飯事です。
 例えば、学校の設計に必要な配置図を作る上で、学級数の算定をするとします。その際に、校区の対象となる世帯数や、実際の生徒数、将来の予測される生徒数など基本的なプランニングの数字ですら貰えません。すべて自身で推定して事を進めないと始まらないのです。

 とある途上国では省庁ごとに自分の省庁にいくら外国からの援助金を引っ張ったか、いかに多くの機材を援助してもらったかを競うような風潮すらあるそうです。しかもその金額の大小が、その省庁を管轄する大臣の評価に繋がるとも聞いています。

 話は変わりますが、途上国では何が先進国と比べて足りないのでしょう。一般的な言い方をすると筆者は「多くのものを見る機会が無い」、つまり物事をあまり知らないのではないかと思っています。しかも受け取った情報を消化する自分なりのフィルターが確立されていないのではないかとも考えています。
 今ではインターネットの発達により、多くの人が海外の情報を瞬時に得ることが出来ます。ただそれは世界中の限られた人々のみの話で、未だに多くの人はその恩恵に預かっていません。

 ブータンでも首都ティンプーの公務員は各省庁で必ずと言っていいくらいにネット環境が整備されており、パソコンを占有できるクラスの公務員はインターネットにより多くの情報を得ていますが、地方に行けば、未だにクリスマスやビートルズを知らない人が大半を占めています。

 先日も近所の学生が私にこう話しかけてきました。「台湾では人を食べるそうだがそのことは知っているか?」まじめな彼の人柄を良く知るだけに、筆者はびっくりしました。彼はインターネットでその事を見たそうです。「ウエブで見たから間違いない」と言う彼は先進国の人間から見ると情報に対して無防備過ぎるのではないでしょうか。
 この事は教育によることが多いと考えています。教科毎の詰め込み教育を中心に行い、芸術や道徳系の科目を疎かにしていると、想像力・理解力の育成に対して影響が出ると、筆者は考えています。

 具体的に言えば、数学や物理では公式を使って計算をさせる問題を多く見かけます。最初の簡単な公式に対しては「何故この公式が出来たか」の説明が簡単に述べられていますが、以降は全くその公式の成り立ちが説明されていないのです。
 つまり、その公式を使って答えを導くことは出来ても、現実社会に応用する際の、ちょっとした応用が出来ないのです。数学や物理で一番身につける必要のある「論理的に物事を積み上げて理解する」作業がなされていないのです。

 この次はこうなるだろうと、頭の中で創造し、シュミレーションしていろいろな事態に備えることがこれから途上国では多く期待されます。それは今後の教育に掛かっているのではないでしょうか。

 

文責 平山修一

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