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日本向けGNH武士道より「義」
新渡戸稲造の武士道には「すなわち我々の行為,たとえば親に対する行為において,唯一の動機は愛であるべきであるが,それの欠けたる場合に,考を命ずるためには何か他の権威がなければならぬ。(中略)愛が徳行を刺激するほど強烈に働かない場合には,人は知性に助けを求めなければならない。(中略)義務が重荷と感ぜられるるや否や,ただちに義理が介入して,吾人のそれを避けることを防げる。」とある。 社会単位が家族であるブータン,もしくは昔の日本では義理を感じる人,義理を果たす対象となる人が明確であったはずである。そしてその関係の多くは愛で結ばれていたはずである。しかし,社会単位の多くが家庭から社会へと大きくなってしまった現代日本では,義理を感じる対象,果たす対象も家族から社会へと移り変わり,愛も個人と社会の間では存在しづらくなってしまった。愛が存在しなければ義理は発生しない。半ば強制的な義務しか存在しないのではないだろうか。こんな現代社会では親から子へ受け継ぐ形の義理が発生しづらいであろう。受け継がれる義理が発生しないという事は,何か物事が発展されるにしても一世代限りの発展となってしまわないだろうか。少々極端な例だが最初にあげた義理チョコの様にその日限りに。 武士道の中の「義」という武士の掟から派生した「義理」という言葉の中にも継続的な考えが存在していることが判る。「義理を果たす」という何気ない行為であるが,親から子へ子から孫へと受け継がれたならば継続的な発展に繋がっていたのではないであろうか。「義理を果たす」というごく小さな行為も,愛が伴えばGNHの考えにもある持続的発展を遂げる為には大きな力となり得るのではないだろうか。
文責 瀬畑陽介 参考文献 新渡戸稲造著,矢内原忠雄訳『武士道』岩波文庫,1938年 |
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