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靖国神社参拝に思うこと

 最近、小泉首相の靖国神社参拝に関して内外で活発な議論が展開されている。マスコミの報道によると、現職大臣や閣僚経験者が多くの外交の場で自国の首相の行動に対して批判的なコメントをし、対中交渉や対韓交渉に臨んでいるとある。これについて皆さんはいろいろな意見をお持ちだと思う。

 筆者は先ず公式参拝自体は他国にどうのこうのといわれる筋合いのものではないと考えている。当然のことながら、他国に一定の配慮をすることは必要なことだが、その前に日本の国民としてやることが在るように思えてしょうがない。筆者は靖国神社がどういう経緯によって建てられたものかも十分理解しているつもりではあるが、靖国神社に祭られているとされている旧A級戦犯はすでに罪を自らの命と引き換えに償った人たちである。つまり罪を償った人たちである。そこで一つ疑念があるのだが、A級戦犯として判決を受けた人たちは本当に当時の国際法廷で正当な裁判を受けたのであろうか。A級戦犯云々を問題にする前に、その裁判自体の検証作業が必要ではないであろうか。

 戦後ドイツは「自らの過ちを正しく見つめなおす為に」世界大戦時に行ったドイツの行動を見つめなおしている。このことはつまり対外的にも内政的にも当時の社会・国際状況を踏まえて戦争を見つめなおした事に意義があった。そしてその作業によって戦争理解に対して一定の内外のコンセンサスを得たことは大きい。その為、戦中にドイツが行ったことは「歴史の教訓」と昇華しえたのである。

 では日本の場合はどうであろうか。今でも遅くは無い、日本にとって戦争とは何であったのかを正しく当時の世界状況を交えて理解するときである。このコンセンサスが国民の間で取れていないからこそ、未だに対外圧力に弱腰にならざるを得ないのである。当時の欧米列強の行っていた植民地統治、歴史的背景、東京裁判の記録、真珠湾攻撃の経緯などなど、今までの日本史教育で一番おざなりに扱われてきたことを再度洗い出す作業が必要である。

 今のままこの作業もせず、この問題を放置する以上、日本は真の意味で他国をリードする国には慣れないのである。まだ日本の「戦後」は終わっていないのである。

 

文責 平山修一

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