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深い悲しみ

 40歳を前にして思うことがある。最近「怒り」の感情があまり沸き起こらないのである。しかし、その代わりに「深い悲しみ」を感じるようになった。これは年齢に伴うものなのか、それとも長期に渡る海外での援助活動によって自分の心に変化があったのか・・・。それとも自分の心が傷つかないように条件反射的に自分の心が、怒りによって傷つかないように「悲しい」といった自己消化的な感情・態度を反射的に取るようになってしまったのか、こればかりは自分でも分からない。
 この深い悲しみは中々根が深い。高田忠典のコラムにもあるが、怒りのエネルギーは「瞋」という種類の精神状態に分類され、この精神状態によって作り出される毒は激しいけれど比較的静まりやすいものとされている。しかし、悲しみのエネルギーはどちらかというと静まりにくいように思える。怒りの感情のように、上がって下がると言う波のような感覚ではないような、まさにDeep Blue seaに引き込まれる感覚である。
 誰しも一度は思うのではないであろうか?「あのときこうしていれば」とか、「あの時何でこう言ってしまったのか?」など・・・。今更取返しの付かないことを省みる行為は無駄だと思う反面、今の率直な自分の心の叫びであると思う。このように、心の問題は複雑でいろいろな感情が湧いては消え、湧いては消える。

 チベット仏教ではこのような感情が起こるのは極自然なことで、大切なのはその感情に心が支配されないことだと説いている。「昇華することなく、湧き上がる感情をまるで川に流すごとく流しさる。もしくは自然に静まるまで待つのです。理由は考えてはいけません」これはブータンの高僧が筆者に言った事である。感情の理由を考えず、それに囚われない事が大事・・・言葉では分かっているもののいざ実践となると難しい。
 何に悲しいのか、何が悲しいのか、何で悲しいのか・・・考えれば考えるほどジレンマに陥る。考えれば考えるほどいろいろなものに囚われてくる。まさに先述の高僧の理由は考えるなと言うことも納得できる。

 人の性といいますか現状に満足できない人は多いのではないか。もっとこうできないか、もっと欲しい、もっと新しいものを・・・この欲求は向上心と結びつけば非常に重要なものだと思える。しかし、この欲求が膨らめば膨らむほど、満足と言う感覚は得られにくい。
 幸せと言う感覚にしてもそうだが、まさに今手元にある大事なもの、今満たされているものをなくして、始めて「ああっ、私はその時は幸せだったんだなあ」と理解するのであろう。それではあまりにも悲しすぎる。何故、人はそれが手元にあるときに気がつかないことが多いのだろう。

 こうして日常生活の中でふとひと息ついたときにいろいろな葛藤に苛まれる。日常が忙しければ忙しいほどこうした事は忘れがちである。しかし、それは問題が現在表面化していないだけで、そのジレンマは日に日に深い悲しみになっていく。
 これは自分だけの問題なのだろうか、それとも人間特有の問題なのであろうか、それとも情報があふれた社会が抱える問題なのであろうか。GNH研究を続けることで少しでもその理由が分かればと思う。

 

文責 平山修一

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