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見失ったもの・・・・「鉄道事故を通して」

 先日の鉄道事故には考えさせられる。とうのも2005年5月5日現在、事故にあった車両にたまたま2名の通勤途中の乗務員が乗り合わせており、その乗務員が「乗客の救出をしなかった」ことを毎日のようにマスコミが糾弾している。
 その乗り合わせた乗務員は上司に報告をし、その後通常業務についたという。これは会社員の立場と人としての立場、鉄道マンとしての立場を秤にかけた上での彼らの判断であろう。
 JR西日本の公式なコメントでは「本当に鉄道マンとしての常識に欠ける」としてこの乗務員2名に対しての処分を検討しているという。事実関係だけを検証すると、彼らに「最優先事項は何か」を判断できる能力が当時、欠けていたことは確かである。しかしこれは一概に彼らの責任といえるであろうか?

 彼らの取った行動の道義上、いい悪いという判断は抜きにして、彼らは会社の上司の判断において、自分の「今日の鉄道マンとしての仕事」に対して責任を持っただけなのではなかろうか?言い換えれば「会社員としての立場」を守る為、何か大事なものが麻痺していたのではなかろうか。しかし彼らがもしそのまま救出活動を断行していたなら会社はそれを「良し」としたのであろうか?筆者にはそう思えないのである。
 筆者は10数年間、日本の会社員として働いた経験がある。今はその会社とはあまり縁がないが、今でもその会社で得たものが自分のベースとなっている。「会社の為」に一生懸命働いた事は働いたのだが、やはり筆者の職場であった建築現場は職務上の責任においても独立性が高いので、常に「建築屋としてどうする、どう行動する」ということを念頭に考えて行動してきたし、また会社もそうする様に社員教育を行っていた事を覚えている。

 そんな筆者も苦い経験がある。それは日夜業務に追われていて余裕のない時期でもあった。その日はどうしても外せない仕事上の打ち合わせがあり、会社への通勤を急いでいた。そんな状況の時に、その通勤電車内で近くに居た女性が急に倒れたのである。
 彼女は電車の床に倒れ、中々起き上がらなかった。明らかに具合が悪そうに見え、誰かが病院に連れて行くべき状況でもあった。本来なら私が近くに居たので助けるべき筋ではあった。しかし私は彼女を助けずにそのまま置き去りにした。誰かが助けるだろうと思って。。。そう自分の仕事上の用事を優先させたのである。
 当時の私は「会社員としての自分の立場を守る」事に一生懸命であった。そのとき取った自分の行動は道義上許されるものではないと今では思える。しかしここで一つ疑問がある。道義上の事や、人として当然の行動を取ることによって、自分の企業人としての職務を放棄する事を今の企業は容認するのであろうかという事である。

 現在のJR西日本バッシングはある程度仕方ないと思う。しかし、同乗していたJR社員へのバッシングはどうかと考える。彼らも被害者であることを忘れてはいけない。

 最後に被害者の方の無念を思うと本当に心が痛む。友人、家族を突然亡くされた方々のショックは我々第三者にははかりしえないものであろう。二度とこんな事故が起こらないで欲しいと切に思う。

 

文責 平山修一

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