<< 一つ前のコラムへ 次のコラムへ >>

ホルモンのバランスから見た GNH

 自然哲学を基盤とした伝統医学の世界では我々の人体も、自然環境の一部であるとみなしている。各器官の機能に該当する火や水や木の要素が攻め合い、補い合う事で全体のバランスを取り合っていると考える。伝統医学とは一線を介す現代医学の分野に目を向けたとき、全身のホルモンのバランス機能は先に述べた伝統医学との関連を連想させる。

 ホルモンは神経系や免疫系と共に人体の恒常性(ホメオスタシス)を維持するために欠かせない物質である。その作用は単独のホルモンで機能するというよりも複数のホルモンが微妙に相互を牽制しつつ全体の機能均衡を保つよう働きあっている(フィードバック作用)。その組み合わせは複雑であり、一生に産出されるホルモンの量もスプーン一杯分という程ごく微量な為、その研究も未だ解き明かされていない部分が多い。その無数とも言えるホルモン同士の関係の中で特によく知られている事例を紹介する。

 ストレスや興奮状態が感じ取られると、脳内ではそれぞれノルアドレナリンとドーパミンと言った興奮系ホルモンが著しく増加され緊張に対応する為の状態が作り出される。一時的に興奮系ホルモンが増加する事は、適度なストレスや興奮に対しての集中力が高まった状態とも言える。これに伴い刺激伝達物質のひとつであるセロトニンは、これら興奮系ホルモンの増加を抑制し、ストレスや興奮を受ける前の身体の状態に導いていく。セロトニンの働きがあって初めて我々は平常な状態を取り戻すことができるのである。この過程で消費された脳内のセロトニンは、休息を取る事によって再び補充されるのであるが、ストレスや刺激が過剰に至った場合、脳内のセロトニンは不足を起こし、結果、興奮状態が治まりにくい、眠りが浅い、また感情的になりやすいといった状況が生まれる。この状態が長引けば当然、穏やかで「幸福」な状態とは言えなくなる。

 それでは刺激の全く無い生活を心懸けると常に「幸福」な状態が続くかと言うと、それは逆にセロトニンの分泌低下を引き起こす。安定をもたらすセロトニンが不足すれば、突然のショックやストレスへの態勢が低下し、一度受けたストレスからなかなか立ち直れないという状況を引き起こす。精神的に弱い状態になるのである。

 現代は過剰な情報によるストレス社会と言われている。ホルモンのバランスの観点から現代社会を眺めると、興奮系ホルモンの過剰流出は計り知れず、セロトニンの慢性的不足が予想される。我々は社会の中で暮らしている以上、ストレスと向き合い、「不幸」を感じとらない工夫が必要とされる。精神の安定を保つセロトニンを効率よく再生させるには十分な睡眠を取る事が一番である。また活動時にも脳が休息できる環境を確保する必要もある。家族と過ごす時間を作る事や、自分の好きな場所に足を運ぶ事。また自己の原風景の写真を見るだけで脳波に休息が見られる報告もある。HP内「原風景」のページも是非、脳の休息に活用して頂きたい。

 また、娯楽や視覚的映像が過激になっていく反面、現実の生活環境からは便利さや休息が過度に協調され、できるだけ刺激を排除するといった動きがあるように思える。軽薄な人間関係、便利で安全な交通網、過剰なサービス競争。現実の刺激を廃した社会では興奮系ホルモンの分泌する機会は少なくなり無気力、無感動、と言った傾向、それに伴うセロトニンの生産低下によって精神的に癒されない人々が増加している。身の周りにある「幸福」も感じなくなる事態がおきているのだ。

 やはり、大きなストレスに立ち向かうとまでは言わなくても、夢や希望と言った適度な刺激と向き合う事で脳内のセロトニンの分泌を促進させ、バランスの取れた生活努力に取り組む必要があるようだ。

 GNH世界一を誇るブータン王国での生活はいかなるものか。先進国に比べれば圧倒的に個人が感じるストレスは少ないと言えるであろう。また各村に刺激的な娯楽施設は皆無に等しい。しかし、より内部の生活に目を向けたとき、家族を軸とした社会にはそれなりに濃密な人間関係を通した刺激は存在する。四季折々には文化独自の伝統行事が執り行われ、その日の為にご馳走をこしらえ、晴れ着に身をつつみ宴に参加する。大都市に変貌する前の日本そのままの姿がそこに見られる。常に刺激的かと言えば単調で物足りなさを感じる事が多いが、その刺激は常に現実に即したものであり、テレビや雑誌の中のCGを駆使した作り物の刺激ではない。

 この国を精神的に支える仏教の教義の中には「大事な事を大事とし、小さな事を小さな事とせよ。」という意味の言葉がある。当然の事の様ではあるが我々の社会では情報の正しさについての認識が麻痺され、つい小さな事柄に捕らわれ大きな事を疎かにしている傾向があるのではないか。誤った認識の為に過剰に分泌された興奮系ホルモンが脳内で暴走し、それを抑えるはずのホルモンが産出されず、生理機能が働かない状況が起こっている。実際、平和なはずのブータンでもここ数年、都市部で自殺や犯罪等、痛ましい事件を絶対数は少ないが以前に比べて耳にする事が多くなった。急速な近代化がホルモンのバランスにもたらした副作用であろうか。

 

文責 高田忠典

<< 一つ前のコラムへ 次のコラムへ >>