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「期待」と「限界効用」でつくるGNH

1.「期待すること」から生じる「不満」
 誰もが未来に大小の「期待」を抱く。遠い未来の事はまだしも、生き物であれば腹が減れば本能的に腹を満たす状況を期待するものだ。
 まず、空腹中枢が脳に刺激を伝達し、幸福を感じ取るためのイメージが「脳」で作成される。個人によって大きな差は生じるが、この地点で頭の中に作成されるイメージの大きさを「期待値」とする。例えば、冷蔵庫にある食材や料理の腕前、外食するにあたっては財布の中身の状況に準じた「期待値」がこの段階で設定される。実際に料理を目の前にした時、当然、期待値と結果との誤差が小さいほど「不満度」は小さく、その差が大きいほど「不満度」は高くなる。

 物資の豊かな先進国に住む我々にとって、このように「期待値」を裏切られる状況に遭遇したとき「普通は、もっと・・・」と、しばし愚痴をこぼしがちである。「食」以外の場面においても同じような経験をする事は多いのではないか。
 人工的に不便さを排除し整備された我々の社会においては、「期待値」を裏切られる事は非常に希な事であり、逆に、その裏切りがたとえ小さな事であっても大きなショック(不満足)を受ける。

 それに比べ、人工整備が未発達で「自然」の多い環境で暮らす人々にとっては、物事の結果は必ずしも期待通りにならない事が多いと考えられる。彼らは必要以上に「期待」する事がどれだけ無意味であるか、生活の中から常に学習しているのである。ブータンを訪れる外国人観光客がブータン人から感じとる「寛容さ」なのではないだろうか。

2.経済学・「限界効用」に基づく「幸福」の格差
 経済学の分野の中に「満足度」を表す手法のひとつとして「限界効用(Marginal Utility)」がある。ここで述べる「限界」とは日本語で通常使われる「限界・リミット(limit)」よりも「marginal(余分な、最低限の)」という意味を当てた方が適当であろう。欲しい「物」を手に入れたときに得られる満足感から「物」自体の価値を差し引いた値である。分かりやすく例えれば、 ヒマラヤ山中で魚を食べる「限界効用」 は日本国内で食べる魚の「限界効用」を遙かにしのぐ。このように使う。日常ではそのものが持つ「付加価値」とも言えるだろう。当然環境が変われば、その瞬間に得られる「限界効用」=「幸福度」に差が出てくる事は明らかである。
 また、始めて得た物の「限界効用」よりも2回目、3回目と同じ物を得たときの限界効用は通常減少していくと言われている。これを「限界効用逓減(ていげん)の法則」と呼ぶ。つまりその物を得る機会が重なる事に、その物を得た感動が薄れていくと言うのである。これに伴い、大量消費を義務づけられた産業界では常に飽きのこない商品開発が義務づけられる事になる。更に、京都大学名誉教授、新宮秀夫も開発技術学会論文の中で「限界効用はいくらでも人為的に作り出す事が出来、生産が追いつかない状態をいつも作り続けねばならない資本主義経済では限界効用ほどありがたいものはない。」と述べているように、社会が豊かになると共に、人為的にも我々の「物」に対する確かな限界効用は麻痺されてしまったと言えるだろう。

 常に、より豊かで便利なくらしのモデルにさらされた、現代の環境で生活をする内に、我々はいつの間にか物や商品だけではなく、身の回りにある、家族の環境や仕事、友好関係、ふとした「物事」に感動する事を忘れ、確かな価値観を見いだせなくなっているのかもしれない。

 以上の2点から、豊かで便利な社会の暮らしに慣れる事によって、事物の結果に対する「期待値」は右肩上がりをみせる一方で、「限界効用」は逓減していく傾向があると考えられる。言い換えれば、社会が豊かになる程、物事の結果に「がっかり」し、「感激」する機会に巡り会いにくくなるという事である。
 実際、幸福度世界一を自称するブータンの場合ではどうだろう。地形の関係上、物資の十分な補給が困難な反面、必要以上に「期待」する事は少ない。また、物資を得た時の限界効用は流通の便がよい地域に比べ、高いと考えても良いだろう。

 それでは、先進国に住む我々にとって幸福感を享受する事は困難なのか。述べてきた2点についてはあくまで陥りやすいという範疇であり、事実を知った我々は心がけ次第で十分な満足を保つ事が出来るだろう。事物の現状を正しく把握していれば必要以上に「期待」し落胆する事もないし、「一期一会」または「感謝」の精神で物事に取り組む努力を続けるならば高い「限界効用」も維持できるはずである。

 

文責 高田忠典

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