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物の値段って?

 旅行の楽しみは色々な物を見る事と、買い物や食事、移動を通じて現地の人と接することである。特に買い物をする事は非常に多く、常に現地通貨と日本円との為替レートを頭に入れながら日本円ではいくらだから買おうかなあと考えるケースが多い。
 「こんなに一杯買って5000円なんて安いなあ」「たった150円でお腹一杯になるなんて安いなあ」このような声を途上国のあちらこちらで聞くことができる。確かに途上国では日本から旅行で行くと割安感を充足することができる。筆者は西の方の出身なので、安く感じるだけで幸せを感じてしまうのでなおさらである。

 日本で暮らしているとあまり気がつかないことだが、世界中の到る所で一日1ドル以下の生活費で暮らしている人が無数にいる。彼らにすれば一食150円もする食事は非常に高いのである。
 日本で月給20万円もらっている人が一杯800円のラーメンを食べるとしよう。その人にとってはラーメン一杯の月給に占める割合は0.4%である。同じことをブータンで考えると月給2000ヌルタムの公務員が一杯25ヌルタムのトゥクパ(チベット式汁そば)を食べると、その人にとってはラーメン一杯の月給に占める割合は1.25%となる。約3倍の支出である。25ヌルタムは日本円にして約68円なので日本人にとっては安く感じるがブータン人にとっては一杯2400円のラーメンを食べているように感じるのである。

 先日、インドに買い物に行った時のことである。同じバケツ一つ買うにしても店によって値段が違うのである。物の定価が記載されているものなら大体いくらかは分かるので目安になるのだが、どこで何を買っても常に不安な気持ちに襲われてしまう。
 「本当はもっと値段が安かったんじゃあないのかなあ」と考えてしまい、人の良さそうな店主の顔さえ悪者顔に見えてしまうのである。そう、買い物の後のあの独特な満足感が無いのである。よく一般的に女性は買い物によってストレスを発散するというが、これじゃあ発散どころか余計にストレスがたまるのではないかと思ってしまう。
 ところが不思議なことに今ではブータンの首都ティンプーの野菜市場では、野菜の値段が高いほど良く売れると言う不思議な現象が起きている。値段が高いと言っても下一桁の話だが、「値段が高いものの方は品質が良い」と言って同じ品質のものでも値段の高い野菜を買っていくのである。
 筆者は、途上国をふらついた経験が長いせいか、つい本当の値段はいくらなのだろうといつも考えながら買い物をする癖がついてしまっている。そしていつも定価はいくらなのかと言う事に囚われてしまい、買い物の醍醐味であるお金を効率的に使えた満足感や、お金をぱーっと使ったという一種の開放感を味わえなくなってしまう。

 最近、日本で購入する物資の値段が安くなったように感じられる。100円ショップに行けばこれが本当に100円なのかと思うくらいのものが店頭にはずら~っと並んでいる。ユニクロを例に挙げても品質といい品数品揃えといい文句は無い。
 ここでユニクロだけではないが、ものの値段が安いのは本当に良いことなのだろうかと考えてしまう。以前は安いことはいいことだと何の疑いも無く信じていた。貿易により他国との経済格差で輸入した物資に対して安いと感じることも分かってはいた。でも何故安いのかは考えたことは無かった。
 例を挙げるとインドのある町でサッカーボールを生産しているのだが、その多くの労働は年少者によってまかなわれているという事実がある。ある国では少数民族や婦女子に対する低賃金や長時間労働の強制によって安い価格が保たれている。

 インドで桑に似た葉でできた皿を見かけた。話によると約50枚で数ルピー(10円以下)ではないかと言う。拾ってきた葉を湿らせてある型に入れて形を整え、乾燥させるのである。この作業の多くは手作業で行われているのだろう。
 どんな労働状況でこれらが行われているのかは窺い知れないが、これを「不当労働によって作られたものなので私は買いません」と言い切ることは個人の自由である。これを国対国の問題として扱う欧米諸国のような国もあれば、安いからと言う理由で購入する国もある。どちらが良いのか筆者には判りかねるが、一概にどちらが良いと言い切れない問題である。
 ただ値段を通じて、この価格が決まった背景を察知し、それについて自分で納得できるのかを判断し、世の中の仕組みを考えて見るのも一考ではなかろうか。

 ここで思うに物の値段を決め、購入に至るキーワードは2つあるのではないか。先ず一つ目は「自分が納得する価格」である事と、もう一つは「必要なものだけ買う癖をつける」事である。
 「自分が納得する価格」を決めるのには多くの経験を必要とすると思う。と言うのは自分が納得するのには自分の価値観が確立している事と、自分なりのそれぞれのものに対する位置づけがはっきりとしていなくては中々納得できないであろう。
 分かりやすく述べると、自分なりの価値観のベースにあるものの値段はすでに日本で培われているのだから、自分は何に対してお金をかけても良いと思っているか、そしてその物の一般的な値段を良く知っているかと言うことである。

 筆者は手作りのものが好きで手工芸品には少々高めのお金を払っても良いと思っている。よって今や筆者の家では各国の布や民芸品がいろいろ見ることができる。筆者の友人は安アパートに住んで慎ましい生活をしているが何故か部屋の中は熱帯魚で一杯である。
 こういった趣味を突き詰めると、知識量が自ずと必要になってくる。そのものに対する知識がないとものの善し悪しが分からないのである。物の値段を判断できる能力は今後大事な要素であると実感した。

 必要なものだけ買う癖を付けないと、だらだらと金銭を消費してしまう。コンビニエンスストアや安売りの店に用も無いのについ入って何気なく何か買ってしまう。こういう行為は流行や消費者嗜好の調査には役立つが、蓄財には意味の無い行為である。
 消費行為によってストレスを解消できると言う副産物はあるにしても、このような行為を繰り返すのは、お金に余裕のある国民のすることであって、途上国の人達にとっては必要なものを購入する資金繰りに精一杯なのである。
 一般的には上記のように思いがちであるが、実際は途上国の人達も同様の傾向にあると筆者は感じる。月収の何倍もの電化製品を、返済の当ても無いローンを組んで購入してしまう人々を何人も見てきている。
 自分の収入や本当に必要なものを見極められず、購入してしまう。このことは如何に我々人間が、日常接している情報に左右されているかを端的に表している。情報を判断する自分なりの価値観を持つ事が、適正な物の値段を判断する物差しとなるのである。

 

文責 平山修一

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