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何の為に勉強するの

 私は子供の頃から本が読むのが本当に好きでした。子供の頃に2駅離れた町の耳鼻科の医者に罹ることがあって、その時に医療代金の余りを集めては文庫本を購入し、電車の待ち時間に読むことが本当に楽しみだった事を今でも覚えています。
 当時は本を読むことは勉強だとは思っていませんでした。いろいろな知識や経験の疑似体験を本から得ることは当時の私にとってごく自然のことでした。但し学校の教科書を読んでそこから何かを得ようとする勉強は自分には向いていないと思っていました。その理由として丸暗記がとても苦手だったからです。
 丸暗記が得意な人は実際に社会にはいるもので、私の知人には数十個もの資格試験を突破し、数ヶ国語を操るつわものがいます。彼は一度見たものは忘れないと言います。こうした芸等は一般人の私には無縁な世界でした。世間で言う処の「右脳」を使っているのでしょうか。

 人は何のために勉強するのだろうと考えたことは誰しも経験のあることではないでしょうか。高校受験、大学受験、何故こんな思いまでして勉強するのだろう。特に多感な時期に経験したこういった思いはいつまでも心に残るのではないでしょうか。
 では何を「勉強する」と言うのでしょうか。先ず筆者が考えるに、勉強するという行為は、知識を蓄え経験を積み、理解する事だと思います。そういう意味で、人生は何でも勉強だと思います。

 例を挙げると、犬の飼い方一つを取ってもそうです。犬を撫でるときに頭の上から手を差し伸べると噛まれる事が多いのですが、あごの方から手を差し伸べるとあまり噛まれません。こうした犬の習性は「知識」です。それを実際の犬に応用し、色々な犬を撫でて見るのは「経験」です。こうした行為から犬に対して「理解」が深まるのです。
 国際協力もそうです。国の習慣や基礎データーを調べたり、開発経済の理論などを調べたりする事は知識の積み上げです。そして実際にその国に行って直に体感するといろいろな事象から経験を積めます。その経験は事前の知識があればより理解度が増すのです。
 逆の方法も考えられます。経験を先に積み、後からそれに対する知識を深め、理解する方法です。一度社会人になって、再び大学で勉強する人などはこのパターンです。どちらが良いか筆者には分かりませんが、人それぞれだと思います。

 勉強は積み重ねです。一つが分かるとそれに関連付けていろいろな事が分かるのです。その自ずと分かると言う行為が楽しいのです。だから義務教育では理解度を増すための知識を子供に叩き込むのです。
 その詰め込み教育は大切なのでしょうか?途上国で働くと同僚が日本では常識であるはずの知識を持っていないことが良くあります。例えば、円周率、中国の首都の名前、クラッシック音楽の題名、ソフトボールの投げ方、シャーロックホームズの小説などなど、先進国では当然とされる事が理解できないのです。
 先進国の特に白人社会では、その基礎知識または教養をとても重視します。専門以外にそれらを習得している事は会話に欠かせない要素です。教養が無い人間にはまともな話をしてくれません。はっきりと「区別」されるのです。「彼には僕の話は理解できないに違いない」と。

 知識はいろいろな所から得ることが出来ます。学校、先生の授業、宗教、本、雑誌、新聞、TV、インターネット、電車の吊り広告、様々な媒体があります。大事なことはどの媒体を信頼し、自分が選択するかです。
 この選択が重要です。間違った知識や、変なバイアス、先入観ほど人間の考え(思考)を縛るものはありません。思考を縛られないようにするには多くの知識を吸収することが重要です。多くの知識から自分なりの多数決を自動的に行なえる頭を作り上げていくのです。そうして作り上げられていった物が個人の個性であり、判断材料であり、価値観ではないでしょうか。

 多様な考えを持てる事は実に幸せな事だと思います。思慮深さは勉強の賜物です。思慮深い人は物事をいろいろな角度から見ることが出来、一つの事象や物事からより多くの事を学べるのです。
 例を挙げると、自分に降りかかった災難でも肯定的に捉えることが出来ます。一面からしか物事を見られないとしたら、災難のせいで自分は被害を被ったと思い、不快な気分で一杯でしょう。しかし、その事象をより大きな災害に対する警告であると受け取れるなら、その事を肯定的に見ることが出来るでしょう。こうした心の状態は豊富な経験と理解から得られるのです。

 多くの事を学ぶと、発想が豊かになります。発想が豊かだという事は、多くの考え方を理解できる事に繋がります。理解が深まり創造力が増す、このような創造的な行為こそ最高の人間としての贅沢でしょう。このように知の喜び、知る喜びこそが人として生きる醍醐味ではないでしょうか。その喜びを感じるために勉強するのです。
 良く新聞の広告などでおなじみになった言葉で「生涯学習」がありますが、人間は毎日、何らかの経験を積みながら生きている訳ですから一生涯学習をしているとも言えるでしょう。生きる事は既に勉強なのです。逆を言えば生きる為に勉強するものなのだと筆者は体感しています。

 

文責 平山修一

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