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日本向けGNH武士道より「勇」

 私が小さかった頃,自分の親のみならず近所の叔母さんにも色々と叱られた覚えがある。しかし,今日においては公園で遊んでいる他人の子供を叱ろうものなら,叱った大人がその子供の親から文句を言われてしまう。
 また,常識を逸した行動をしている人の行為を指摘するとすれば,その人は時には殴りかかってきたり,挙句の果ては傷害事件となってしまったりと全くおかしな話である。つまり、周囲の子供が悪い事をしていても,常識を逸した行動をしている人を見付けても,叱るべき時に周囲が叱りにくい世の中となってしまった。もしくは全く叱らない・叱られない世の中に。

 「勇とは義(ただ)しき事をなすことなり(新渡戸稲造著(1899),矢内原忠雄訳(1938) 武士道 岩波文庫より一部引用)」。“ただしき”を“義しき”と書く事からも“義理”が関わっている事が判る。つまり,「勇」は義理があってこそ存在し得ると仮定できるのではなかろうか。
 つまりは義理をきちんと果たす上では大なり小なり「勇(勇気)」が必要とされるのではなかろうか。例えば武士社会は自分の身を挺しても,義理を果たすべく勇気を持って行動していたであろう。

 現代の生活においては,成すべき時に成すべき事を成さない、または成すべき事がない場面が増えているのではなかろうか。これは今の世の中に義理と共に勇気も少なくなっているからではなかろうか。
 筆者は義理が少なくなっている原因は「愛」が少なくなっているからではなかろうかと思う。以前のコラムに高田忠典も書いている「愛情の反対は無関心である」と。他人に対して無関心でいられるのは「愛」が少なくなっているからではないか。前文の繰り返しになるが愛がなければ義理は発生しない。義理無ければ,成すべき時に成す事もなくなる。つまりは「勇」の必要性が現代では薄くなっている。

 最小の社会単位が家族から社会へと移り,人と人の間で発生していた義理は,人と社会の間では発生しにくくなっている。義理が発生しなければ「勇」も発生しない。一方,成すべき事が出来た時にそれを実行出来ないとすれば,それは「勇」を常日頃から持ち合わせていない為。もしくは成すべき事が無い世の中だからではなかろうか。こういった現代社会では,個人の目的に沿った事を成し遂げようとする一世代限りの継続性のない社会発展のみとなってしまわないだろうか。

 

文責 瀬畑陽介

参考文献  新渡戸稲造著,矢内原忠雄訳『武士道』岩波文庫,1938年

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