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本当の貧しさ

 1年ぶりにブータンに赴任する前日、飛行機の乗り継ぎの関係上、タイのバンコクに一泊した。タイのバンコクは横浜に匹敵するかの大都市で、町の中心部にはブランド品を売る店や大型百貨店が見ることができる。そして町の至る所にコンビニエンスストアの看板や外資系企業の宣伝広告を見かける。

 バンコクはアジア近隣諸国に向かう際には便利な場所で、良く訪れるのだがここ数年バンコク市内に乞食の姿を多く見かけるようになった。1997,8年に旅行で訪れた際にはほとんど見かけなかったのだが、今では繁華街の至る所に乞食が居る。タイ東北部を中心に起こった田畑の塩害により、都会に出てこざるを得なくなったのだとタイ人の友人は教えてくれた。
 彼らは一日の大半を路上で過ごす。多くの女性の乞食は乳飲み子やまだ幼い子供を連れて物乞いをする。本当に居た堪れない光景である。乞食自体も居た堪れないのだが、その彼らの背中越しに見えるファーストフード店で、アイスクリームを食べている小学生のグループを見つめている乞食の子供の姿に、私は居た堪れなくなってしまった。彼の目にはこの事はどう映っているのだろう。
 多くの途上国の首都では、日本と変わらないような高級輸入品や海外ブランドの店を良く見かける。コーラ一本の値段が一食分の値段と同じような国で、冷えたコーラが店頭を飾っている。寒さが身にしみる国で高級毛皮が売られている。それらの値段はその国では破格であるにもかかわらず、一部の富裕層はそれらの物品を買い、自らの豊かさを一般の人に見せ付けるのである。目の前にものが在るのに手が届かない。これほど辛い事は無かろう。

 話は変わるが、ブータン人は自国の豊かさを表すのにたとえでこういう表現をすることが多い。「アフリカは101もしくは001だろう。ブータンは1111だよ。この意味を君は分かるかい?」とブータン人の友人は私に聞いた。無論分かるはずも無い。友人は続けた。
 「これは食事の回数を表しているのだよ。朝食を食べれば1、無しなら0、そして朝食、昼食、夕食の順を表している。アフリカは朝食を貧しくて食べられないだろう?だから0と。で昼食も食べられるかどうか、、、かろうじて夕食は食べられるだろうから1と。」
 「ブータンは違うだろう。朝食、昼食、夕食をちゃんととってしかも夜食まで食べられる。これはなんと豊かな国なのだと思うよ」と二重顎の彼は楽しそうに笑った。彼のアフリカ諸国に対しての知識の無さには閉口するが端的にブータン人の豊かさの尺度の一端が窺えた。

 私たちが一般的に「貧困」と聞くと飢餓で苦しむ人たちや、戦争で家屋を失った人を思い浮かべてしまう。それだけではなく、経済学者のアマルティア・センは貧困の定義の一つとして選択の自由が無いこととしている。人間が人間らしく生きられない、このことは人間性の観点から見る貧困状態である。人がお互いを尊重して生きられる社会は、少なくとも貧困を感じないだろう。
 あと貧困は「他人と自分を比較する」時に感じる感情の一つだと思う。他人が自分より裕福であったり、機会に恵まれた状態を見て、自分は貧しいんだなあと認識するのではないか。
 物事を必死にやっている時や、皆が戦時下で苦労を共にしている状態では貧困を感じる余裕は無いのではないか。他人と置かれている状況を共有したり、感情を分かち合っているうちは自分の貧しさをあまり感じないのではなかろうか。

 以前日本で頭が悪いことを湾曲に言う言い方で「発想が貧困だなあ」と言ったが、その発想を支える、発想を自由に行える状態が自然であり、言論統制やメディア規制、極端な階級社会などはそうした発言や発想を妨げる要因の一つであり、貧困状態を招く一因でもある。社会全体が重苦しく、自由な発言を受け入れる余地の無い場合は、いくら物質的に豊かであっても「人生の豊かさ」を感じないのではなかろうか。

 ブータンという国は国民総幸福度(GNH)を国の発展の指標として用いている稀有な国である。GNHは一説には「貧困の容認ではないか」とか「国民に強いるイデオロギーである」との批判もある。
 しかし筆者が考えるに、GNHの真意は、現金収入は高くなくても、人々がお互い尊厳を持って、平和で穏やかに暮す事が出来る社会に所属・参加する事こそGNHが示す所の「幸せ」であると思う。
 物質的に豊かなことのみが幸せの尺度とするならば、最も金持ちの国の人たちが世界中で最高に幸せになるべきであろう。しかし、物質的欲求には、ストレス関連の病気や自殺のような多くの社会問題の増加や、幸福の対照的とも言える現象の増加が伴われるのである。

 KJ法で有名な東工大名誉教授の川喜田次郎先生がヒマラヤの民との交流の経験上、おっしゃっていたコメントがある。「人間にとって一番の喜びは創造力である。創造的な行為が出来る喜びは何にも勝る。」
 人が自らの責任を伴い、創造的な行為に携わる、一緒に物事を作り上げていくことこそ、幸福であり、その事を阻害されている状態こそ、貧困状態に置かれていると筆者は考えるのである。

 話は変わるが、ブータンで暮らしていると、魚を食べる機会がほとんど無い。しかし、日常生活で刺身や焼き魚のにおいや視覚的に刺激を受けることが無い為、欲しいとは思ったことが無かった。無いことが当たり前で現地在住の日本人は皆同じ状況で、仕方ないことと考えていた。
 ところが昨今、1999年にテレビ放送が解禁となり、ブータンでもテレビを見ることが可能となった。しかもNHKが日常的に見ることが出来るようになったのである。そしてテレビを通じて、嫌がおうにも日本の情報や生活が視覚的に伝わるので、今ではいろいろな欲が心の中で発生し、気持ちを抑えるのに大変な苦労を強いられる。見なければさほど気にならなかったことが視覚的に見てしまうと押さえが利かない事を、身をもって感じたのである。「知らぬが仏」という言葉もまんざらではないなあ、と思う。

 海外で生活をしていて感じるのだが、日本もいわゆる形を変えた貧しい状態ではないではないか。確かに物質的には豊かになったかもしれないが、人と人とのつながり、家族関係の希薄化、人の個性が尊重されていない状態など、どれをとっても「豊か」とは言えないのではなかろうか。今こそ本当の幸せを一人一人が考え、社会を変えていく絶好のタイミングではないでしょうか。

 

文責 平山修一

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