~GNHの役割について~ 平山修一

 近代経済学の父、アダム・スミスは国富論の中で「人は本性として自分の利益のためには最大の力を発揮する。よって私欲の放任こそ経済を活性化し結果として国を富ませ公益に貢献する」と言っていますが、私はその論の中で語られる経済のスケールをはるかに超えた現在では、この考え方は無理があると思います。しかし、拡大指向型、まず供給ありきの考え方はGNP指標と同様に世界の主流です。

 逆にフランスの経済学者J.B.Say(1767~1832)は「供給はそれ自身の需要を作る」と申しておりますが、まさにその供給過多が幸福感や充足感を阻害しているのでしょう。ここがGNHと大きく関係するポイントと言えます。数十年前の日本の海外商社を風刺したコメントに「商社マンはエスキモーに冷蔵庫を売るくらいで無ければ・・・」とありましたが、まさにまず供給ありを象徴しています。

 近代都市は機能上、物流や情報の供給に即したつくりとなっています。しかし農村は供給重視の機能にはなっていません。これがGNHを理解するキーだと考えています。逆に農村は代々その土地が持つ環境容量に即した生活を営んでいます。人口やその生業はその土地の持つ生産量や自然回復度に即したものになっています。つまり需要に応じた供給がなされているコミュニティこそが農村だと考えています。つまり農村=ブータンはこのような生活を続けて、そして今後もブータン政府は国民にそれを強いることが予想されます。この「土地が持つ地力に応じた生活を如何に継続させるか」がGNHの役割の考え方のひとつとなっています。

 需要以上のことを戒める言い伝えは農村・漁村には多く残っています。「魚を育てるなら木を育てろ」とか「小魚は取れても逃がせ」などそれは伝統や文化としてそのコミュニティの持続性のために子孫代々伝えられています。また古来の地名などはその土地の特徴を現しているといいます。

 つまり農村に残る伝統や文化は、そのコミュニティが生き残るという需要のために残された知恵だと考えています。この知恵を理解し、農村がそれを正確に次世代に伝え、それを誇りに思う事こそが農村の活性化だと思うのです。そしてその価値を同様に都会の人々は認めるべきだと考えます。そのための共同作業や共通体験を含む交流促進や知識の共有は一層図られるべきだと思います。すべてにおいてどちらかだけの考え方では問題があり、バランスが必要です。GNHの具現化にはGDPの増大も必要なのです。

 今の時代は、供給過多の時代だと思います。しかし良質な知識は多く供給されていても多くの他の情報に埋もれてしまいがちです。その大量の情報や画一化の過程の中で、「多くの供給物にたやすくアクセスできる」都会は魅力的に移るでしょう。しかしその多くの情報アクセスの中から必要なものだけを選択できる知恵を磨く時代に日本はなっていると思います。このための教養を身につけ自律のモラルを高める教育は必死かと思います。

 GNHはそういった多くの概念を抱合していると考えています。ブータン総研のKarma Ura所長も明らかにGNHはフィロソフィであると述べています。彼は仏教を哲学と捕らえているので、それはそれで解釈の難しいところです。

 この観点で物事を考えますとGNHを促進していくもの、都市化や近代化との位置関係はおのずと分かるかと思います。そして数値化は無意味であるという結論に達すると思います。クエンセル新聞社の社主Kinrey DorjiもGNHはその追及する過程にこそ意味があるものであるとその位置付けをしています。この点は多くの一時情報者の意見は一致しています。

 私はGNH自身の数値化よりGNHを感じることが出来る環境整備に対しての数値化が良いのではと思っております。またGNHは他国への応用は可能で、特にアジア農村社会においては応用可能な概念だと考えています。

 

文責 平山修一