~GNH で論ずる幸福とは~ 平山修一

 「GNHとは」でも話題にしたが、このGross National Happiness の中の National つまり Nation をどう翻訳するかが GNH の大きな課題である。具体的に言えば、「個人(国民)にとっての幸福」を追求する行為なのか、それとも「国家(社会)にとっての幸福」を追求する行為なのかを定義するのがこの言葉だからである。これは意見が分かれるところであろう。

 この議論をする前に前提条件として考えなければならないことがある。つまり「ある種の個人にとっての幸福は社会にとっての幸福には結びつかない」という事である。つまり例を挙げると個人に富が集中する行為は、特定の個人にとっては幸福な行為であると仮定した場合、それは社会にとって「税金といった手段」では社会に還元されるものの、もしその富が社会で総量が一定の場合は、ある種の個人は幸福ではない状態にいるのではないか。

 「公平であること」は必ずしも個人の幸福感に直結するとも思えない。しかし公平であることは社会インフラなどの公共の立場で考えれば必要なことである。しかも社会にとっての幸福には欠かさない要素であろう。つまり何でも一律のものを安定的に入手できる状態は、不幸であることでは無い。しかも法律のように全国民に公平に義務付けられるものが、国民の総意であるとしたら、それは連帯意識に繋がり、新たなる社会の価値の創造に繋がる。

 よって筆者は、この公平感がGNHの幸福に繋がるものと認識している。公平すなわちプラスや所有の発想ではなく、「不幸でないこと」、「特に自分が幸せかどうかを意識しないこと」つまりマイナスで無い事自体が幸せな状態にいることを表しているのではないか。しかし個人の人権に制限が加わる、もしくは表現や思想の自由に制限が加わる場合はいくら公平といえど、社会は不幸を実感するので、幸せな状態とはいえないであろう。

 本研究所研究員の大久保は次のように指摘している。「近代社会は本当に More is better, Bigger is better, Faster is better という価値観に囚われすぎている気がします。数値化して計量できる数や量や規模や速さ・・・にとらわれるあまりそのクオリティが軽視されていて本末転倒な結果があちらこちらで起こっている」まさにこれは GNH が言うところの幸福の概念とは逆の幸福感を追うあまりに幸福感を感じなくなった近代社会を絶妙に表現している。

 以上のことから筆者は Gross National Happiness の中の National を「国家(社会)」と定義したい。

 

文責 平山修一